大谷会長開会の挨拶
関東は、10日よりお盆ということで、今日は午後から、ちょっと姿をくらましまして、こっそり抜け出して参りました。今日、これが終わりましたら、そのままとんぼ返りで東京の自坊まで帰り、このまま何もなかったように明日を迎えることになっています。(会場笑い)
夏安居例会ということでありまして、お釈迦さまの時代ですと、道を求める僧たちが、夏になると這い出す虫けらを踏んではいけないということで、一所に安居してあまり出歩かないとしたようであります。どんな小さな虫も殺してはならないとしているのでありますが、こんな時期に、日本のあちこちにヒアリが出て参りまして・・・、殺してはならないのであります。
ヒアリも虫けらも命でありますので、殺していけないのであります。(会場複雑な笑い)
そんな中で、お釈迦様の一番深い教えに「人は命を頂かなくては生きていけない」というお言葉がありますが、こういう自覚に立って、そこに深い痛みを感じながら、人は生きていかなくてはならないということであります。
本日は、会員の本庄巖先生に、「三蔵法師と歩くシルクロード」と題しお話をしていただきます。
私も楽しみにして参りました。どうぞ、よろしくお願いします。

 

三蔵法師と歩くシルクロード
 

会員スピーチ : 本庄 巖 会員

 自分の専門(※京都大学名誉教授:耳鼻咽喉科学)の学会では、わりと平気でいろんなことをしゃべるんですが、こうして仏教界の重鎮の方々の前でお話をするということで、間違ったことはしゃべらないつもりですが、非常に緊張しております。と、ご挨拶をされ、お話を始められた。

自分は、この10年くらいの間に6回ほどシルクロードの旅に出ました。
シルクロードと申しますのは、中国の西安よりヨーロッパのローマに至るまでの道をいい、「絹の道」と言われております。
絹だけではなく色々な文物が行き交ったと思われます。
一番東にある日本の正倉院に、そのシルクロードの文物が納められ、良く保存されていることは皆さんよくご存じのことと思います。

プロジェクターで映し出されたスクリーンの西域の地図を見ながら、お話を進められます。

玄奘-正観筆

この西安より出発します。
新疆ウイグル自治区の辺りには遺跡がたくさん残っています。
そこからさらに西へ行くと、タジキスタン、ウズベキスタン、それからイラン、今は入れませんが、シリア、ヨルダンまで参りました。
その途中に、三蔵法師がインドまで経典を求めて困難な旅をされたその遺跡にいくつか出会いまして、少し大げさですが、三蔵法師と同行二人の旅と勝手に自分で決めつけ、そういう旅をして参りました。

三蔵法師は、唐の時代(※629年)に単身、お一人で西へ向かわれました。
三蔵法師は、「道」を求められるお気持ちの強い方であったようでありまして、唐の時代にいくら経典を深く読んでも、なかなか疑問に答えてくれるものではない。あるいは唐のいろんなお寺の高僧に聞いても疑問に応えてくれない。
そんな時、かつてお釈迦様の居られたインドへ行って、そこで教えを乞う、あるいは仏典を読んで、それを写し、唐の都に持ち帰る。そんな固い決心をされて、たったお一人で西へ向かわれるんですね。

この求道の精神というのは、「すごい!」と思いました。

大雁塔

スクリーンに映る大雁塔の写真を指し、最初、この大雁塔へ参りましたが、三蔵法師の象徴であるともいえる建物だということで感慨深いものがあったのですが、この建物の中でお持ち帰りになった、たくさんのお経の翻訳を19年間かけてされます。結果、1338巻ほどの経典に仕上げられるわけであります。

で、当時、唐の都では、国外に出ることは許されてりませんでしたが、国禁を犯して西へ向かわれます。

 

玉門関

玉門関という関所の写真を指しながら、ここを出るとそこは、もう中国ではない。タクラマカン砂漠の入り口で、現在は新疆ウイグル自治区となっておりますが、私はここに参りました時に思いました。こんな過酷なところから一人でよくも何千キロも行かれたなぁ・・・と、心から感服したのです。
玉門関の前に氏が立たれた写真は、砂嵐などから目や体を守るために完全防備の装いで写っています。
決して大袈裟ではないと言われ、日本に飛んでくる黄砂の源がここだと、お話を進められます。

そして、三蔵法師は一路、西へ向かわれるのですが、ご用意された三蔵法師の歩まれた地図(上の写真)を指しながら説明をされます。往路が赤色で、復路は道が違いますのでブルーの色で表しています。
天山山脈の北側を通る天山北路と天山山脈の南側を通る天山南路。それからこの崑崙山脈の麓を通る西域南道
と、この三つのルートがありますが、三蔵法師は、往路は天山南路を選ばれ、なぜかこの天山山脈を越えて北に向かわれてタジキスタン、ウズベキスタンを経由して、アフガニスタンから天竺(※インド)に入っておられます。
帰りは、このパミール高原の西域南道を経てカシュガル、現在では中国の最西(※中華人民共和国新疆ウイグル自治区)になるのですが、ここを経て西安に戻って来られます。

高昌故城

高昌故城(※中華人民共和国 新疆ウイグル トルファン地区 高昌区)トルファン市の南東にある高昌国の城跡。当時のこの国の国王は、仏教に帰依しており、三蔵法師が近くをお通りになるのであれば、ぜひ、この国にお立ち寄り頂き説法して頂きたい。またこの国に滞在して仏教を広めて欲しいと懇願されたのですが、天竺へ向かう意思は固く、1カ月間だけ滞在し仏教を講じられたそうです。国王は、お礼に金銀財宝牛車や馬などを差し上げ、西域の国王たちに親書を書き、法師が無事に旅が続けられるように協力を要請したといいます。こういうことからしますと三蔵法師というお方は非常に徳のお高い皆から愛される方だったと思われます。
この国王の絶大なる協力のおかげで、法師は、無事に旅ができたと言っても過言ではないような気がします。
日干し煉瓦でできていましたから、現在では形が残っておりませんが、説法をされた寺院跡は残っています。

キジル千仏洞

この近くにキジル石窟がありますが、ちょうど敦煌の石窟寺院を小型にしたような石窟(※新疆ウイグル自治区アクス地区バイ県キジル郷にある仏教石窟寺院)の遺跡群であり、キジル千仏洞、キジル石窟寺院とも呼ばれ、新疆では最大の石窟だそうですが、ここにも三蔵法師はたずねておられる様であります。
我々もこの天山南路を利用しましたけども、オアシス地帯は、天山の雪解け水が流れてきますので、水が豊富で、そういったところだけは人が住めるということになります。
中心部のタクラマカン砂漠は死の場所といいますか、その生きられる場所と生きられない場所の境目がはっきりしているのですが、オアシスの街では、男は帽子、女性はスカーフとイスラム教の文化なんですね。
豊富な果物が売られていて、ガイドがスイカ等カットフルーツを食べさせてくれ、渇いた喉を潤してくれます。

私は、こういった旅で食べ物を食べたときお腹を壊したことは一度もないのですが、それでわかるように、決して不潔な環境ではございませんでした。

シルクロードのオアシス都市には、道端の餃子屋(写真)があったりしましたが、何といっても多かったのは羊の肉の串焼き(シシカバブー)です。この肉は、現地でいただくとほんとにおいしいものです。パンの代わりといいましょうか、主食はナンです。こちらでは肉類はすべて羊オンリーでして、ブタは一切食べませんし、牛肉も出たことはありませんでした。決して豪華ではありませんが、おいしく頂きました。ナンが美味しくて空港で買って持って帰ったのですが、日本でいただくとそうでもないのです。(会場笑)

スバシ故城

オアシス都市、クチャ周辺にはスバシ故城という仏教遺跡が残っています。(※名僧・鳩摩羅什ゆかりの地で、西域の代表的音楽の亀茲楽発祥の地) 北に天山山脈をのぞみ、南はタクラマカン砂漠と接し、現在は天山南路の幹線道路上に位置しています。 三蔵法師が訪ねられた時には、仏教寺院が100あまり、僧が5000人ほど居たそうです。ここでは法師は2ヶ月間滞在して仏教講義をなさったそうであります。今では、日干し煉瓦があちこちに残っているだけであります。

三蔵法師はこの後、天山越えをされるのですが、なぜその方法をとられたのか分かっておりません。多分こういうルートをとらざるを得ないご事情があったのだと思われますが、ここで人馬をかなり失っておられます。

サマルカンドのイスラム寺院

 

そしてこの後、ウズベキスタンのサマルカンド、これは、古い都でシルクロードの要の都といわれています。ここはイスラム人に青の都といわれており、イスラム寺院は青いタイルで装飾されています。(写真)

 

 

スザニ:刺繍が施された布地で、ウズベキスタンでおすすめのお土産といえば、美しい「スザニ」と呼ばれる刺繍です。(※昔からウズベキスタンでは女の子が生まれると母親が縫いはじめ、嫁入り道具として持たせるという伝統がある)

紙を作ってるところ(写真)中国から紙の作り方が西の方へ伝わって参ったのですが、ここでは紙の原料は桑の枝を削り取って材料にしていたのですが、日本では桑は使わないと思います。できた紙は、かなり分厚い紙でした。

 

それから、東から西へ旅をしますと、西へ行くほど顔つきが徐々に向こうの人のような顔つきに変わっていくのを感じます。
タジキスタンのお店に居た娘さんなどは彫りの深い美しい西洋の女性のお顔でした。(写真)

私の勝手な想像なんですが、かつてこのタジキスタンにはソグド人といったイラン系の種族が居たんですね。
中国では、北方や西域の諸民族を「胡人」と言っておった様です。安 禄山は、ソグド人と言われています。※安 禄山:唐代の軍人でサマルカンド出身、ソグド人と突厥系(トルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族)の混血。)

この当時は、この辺りは仏教ではなくてゾロアスター教(拝火教)が主流であったと、三蔵法師は書いておられます。(※大唐西域記)

(※ゾロアスター教: ゾロアスター(紀元前 630年頃)を開祖とする宗教。主神アフラ・マズダの名から「マズダ教」ともいい,火を神聖視するため「拝火教」ともいう。ササン朝ペルシア時代に隆盛をみたが,イスラムの興隆とともに衰微 した。お水取りや、お松明という行事には、ペルシャ時代のゾロアスター教の儀礼に類似した部分があり、ゾロアスター教がシルクロードを通って飛鳥・奈良まで伝わったという説もある。)

涅槃像

タジキスタンの涅槃像:ドゥシャンベの博物館 地中から発掘された木製の涅槃像

(※出土した涅槃像は,44の部位に分けられ,ドゥシャンベのタジキスタン共和国科学アカデミー内の民族学・美術修復研究室に運ばれた.これより仏像の復元は長くて困難な経過を辿った。
 90年代半ばにエルミタージュ博物館が復元作業に加わった。2000年,考古博物館の復元図完成により,涅槃仏の像は組み立てることができるようになった。修復作業者と,博物館のスタッフは,仏像を組み立て始めた.この仏像の修復・復元計画は,タジキスタン共和国の科学アカデミー研究所内の,歴史学・考古学・民族学の研究所と,フランスのタジキスタン派遣チームとACTEDというNGOのチームとの協力によって実現したものである。復元された仏像は,2001年の秋,タジキスタン共和国の独立10周年記念式典にあわせて,タジキスタン共和国考古博物館内で公開された。)

ウズベキスタンのテルメズ(写真):ここの博物館には、釈迦三尊像がございました。このお顔の造作が日本の仏さまの様子とだいぶ違うということに気が付きます。私の感想ですが、ギリシャ彫刻の影響を非常に受けていると思われますし、ここから南にあるガンダーラ仏ともよく似ております。

釈迦三尊像

(※釈迦三尊像は、ウズベキスタンの南端の町テルメズのファヤズ・テパ遺跡で発見され、首都タシケントの歴史博物館で展示されている。高さ1メートルほどの縦長の楕円形の岩に彫られた浮き彫り。素材は石灰岩。僧院の壁にはめ込まれていたものが、壁からはずれて前に倒れ、彫ってある部分を下にして埋もれたため、千数百年ものあいだ破壊されることも風化することもなく残った。)

このテルメズの南側に流れる川の向こうはアフガニスタンですが、この国に入ることは危険ですので入れませんが、三蔵法師はここを通って、インドに入っておられます。

インドでは、鹿野苑(※サルナート)や、祇園精舍等を訪ねておられるのですが、三蔵法師のお偉いところは、正味16年間ほどインドに滞在されておられるのですが、仏典や仏具を収集するだけではなく、いろんなお寺に行って自らが修行なさっているんですね。
本物の仏教を体得しようとされていたんですね。(※ナーランダ大学では、5年の間滞在され修行された。)
三蔵法師といえば、仏典を翻訳された方だと、我々単純に考えますが、それだけでなくて、長い間インドに滞在されて仏教を極めるといいましょうか、そういう修行をなさった方だと思います。だから、仏典の翻訳にあたっても確信をもって訳され、最終作業の全ての翻訳内容をチエックされたのだと思います。

崑崙山脈

で、復路、帰りはですね。崑崙山脈を越えて中国に入られるのですが、この崑崙山脈(写真)は、皆さんも拝見されたことがおありだと思うのですが、以前に薬師寺にお参りした時に日本画家の平山郁夫画伯がお描きになった「仏教伝来」の絵の中にこの写真と同じ山脈の風景があったものですから、「あぁ、平山先生は、ここでスケッチをし、この崑崙山脈を越えられたんだなぁ・・。」と、感銘を受けたわけであります。

で、この崑崙山脈を越えられる時にも非常な困難があったようで、象が一頭、捺落に落ちて、経典もだいぶ失われたと記載があったといわれます。(※大唐西域記)

カシュガル(写真)、ここは、新疆ウイグル地区の最西端になりますが、ここを通られて、西域南道に入っておられます。
ここに住んでいる人は、中国の人とはまったく違うお顔で、これは、トルコ系だそうでありまして、言葉もトルコ語に似ていると聞いております。
新疆ウイグル地区の古い都市の風景や文化が、現中国政府の近代都市化政策で無くなっていくことにウイグルの人たちは抗議をし続けていますが、このことは皆さんよくご存じのことと思います。

大雁塔

西安(※長安)に帰って来られた時(※645年)には、国禁を犯してインドに出かけたことは問われない。むしろ「太宗」(※唐の第2代皇帝)の歓迎を受けます。(※論・律・経の三部経をマスターしたので、その偉業を讃え三蔵の位を与えられる。)
それから19年間かけて、国家事業として大雁塔のある大慈恩寺というところ等で翻訳作業をされます。
で、どういう翻訳のやり方をしたのかといいますと、やはり頭の良いやり方、能率の良いやり方をやっておられます。
流れ作業で翻訳をされるわけですが、持ち帰られたサンスクリット語のお経は、ヤシの葉っぱに、鉄筆で彫り込んだところにインクを刷り込んだ方法で作られており、たぶん当時のインドには紙の製法が伝わっていなかったではないかと思われます。
翻訳作業は、まず、インド僧が、そのサンスクリットで書かれたお経を読み上げる。その読み上げに対して次の僧が、梵字で書き写す。次のチームが、梵字から中国の漢字に置き換える。次に、音として漢字を当てはめて書きうつしただけのお経を、中国語の意味が通じる語順にして、最終的に、その中国語の仏典に仏教的に間違いがないかチェックをしたのが三蔵法師ではないかと思われます。

玄奘三蔵の訳した経典は1338巻ほどあったそうでありますが、最後に訳されたお経が「大般若波羅蜜多経600巻」だそうであります。これも受け売りなのですが、この「大般若波羅蜜多経」というのは繰り返しの多いお経だそうですね。
それで、お弟子の一人が全部やってると時間が足りなくなるというので、すこしカットして翻訳しましょうということで、三蔵法師も、「仕方がないな」と言われたそうですが、その晩、三蔵法師は非常に恐ろしい夢を見られ、この夢は、そういうことをやってはいけないというお告げだと、そう受け取り全部訳す。となってこの600巻が出来上がったそうです。

それからもう一つ、たいへんなお仕事として、「大唐西域記」という全12巻の西域の状況をつぶさに記載した書物を書き上げられて、時の皇帝に差し上げられております。7世紀といいますと、日本では奈良時代になるのですが、その当時の西の方の様子が非常に詳しく書かれているという歴史に残る書物になっているのであります。

最後に、私は、三蔵法師という方が、どんな方だったのだろうと思うのですが、まず最初に、非常に美男子であった。京劇の俳優さんになってもいいような風貌で非常に魅力的だったようです。そして、何よりも道を求める強い意志、たった一人で西へ向かうというような一途さ。もう、周りの人は彼を助けずにはおれないというような徳の有る方だったと思われます。

以上、私のお話は終わりとさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

 

会場拍手の中、司会の事務局長が「また行かれるご予定はございますか?」の質問に氏は、「よく聞かれるんですが、もう何度もシルクロードは行きましたし、本当は、行きたいところとしてパキスタンとかアフガニスタンがあるのですが、今は危険で行けません。ので、今のところ、そういった計画はございません。」とのことでした。

(※帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げた。太宗の勅命により、玄奘は645年2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。
この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。
その後、玉華宮に居を移したが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられた。664年3月7日、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に玉華宮で寂した。From Wikipedia)

 

(※)の部分は、筆者:藤野正観が読者に分かりやすくするために、解説・説明を加えた部分です。
※写真は本庄会員にご提供して頂いたものの他に、正垣会員やネットより拝借したものも含みます。
※玄奘三蔵の絵図は、筆者の藤野正観が昔、描いたものです。

 

豆知識 :この機会に、せっかくなので、三蔵という僧の称号について豆知識をひとつ。 読者の皆さんは、今から1200年ほど前、玄奘が天竺から帰って来た年から160年後の804年に、空海(弘法大師)や最澄(伝教大師)と同じように「遣唐使」として唐に渡り、「三蔵」という僧としての最高位を得た『霊仙三蔵』という超優れた日本人のお坊さんが居たのをご存知でしょうか?
彼は、玄奘三蔵が成し得なかったインド仏教経典の翻訳事業(カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受・訳語。)を成功させた近江国坂田郡(現・米原市)生まれの日本の僧です。鎮護国家の秘法『大元帥明王法』を日本に伝えられたことでも知られています。
ちなみに、三蔵法師の称号を与えられた仏教僧はインド人3名、中国人2名、西域2名、日本人1名の計8名のみで、優秀が故に、帰国叶わず挙句の果てに、妬みで毒殺されたのですが、もし、この霊仙三蔵が、無事に帰国していたら、日本仏教に与えた影響は計り知れないと言われています。※三蔵とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。

 

 

乾杯のご発声
今日の乾杯の音頭は、副会長の立部祐道会員です。
このようなチャンス(乾杯の発声)を与えられたことをうれしく思うのでありますが、帰りに宝くじでも買ったら当たるのかなぁと思っております。
私も、今日は会長と同じように、このまま自坊のある九州の福岡の宗像に帰ります。
この度、北九州は、豪雨の被害を被りまして、30人を超える方々が犠牲となりました。幸い私のところは被害はなっかたのですが、逆に私の地元はお祝いの渦に沸いております。
宗像の自坊の鎮国寺には、大日如来(宗像大社沖津宮の御祭神・田心姫神(たごりひめのかみ)の本地仏)。釈迦如来(宗像大社中津宮の御祭神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)の本地仏)。薬師如来(宗像大社辺津宮の御祭神・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の本地仏)の三体の女神の本地仏がお祀りしてあり、宗像大社とは、そういった関係にありますものですから、この度の関連遺産群全部が、世界遺産に認定されました喜びを噛みしめたいと思っております。準備はできましたでしょうか? それでは、皆さんのご健康と、被災地の一日も早い復興と、ついでに、私の地元の世界遺産登録を祝して、乾杯!!

 

文責:藤野正観