大谷義博会長開会の挨拶
こんばんわ。今日はご案内のとおり、降誕会の例会でございまして、私も昭和48年12月、初めてインドに仏跡巡礼に行ったのでありますが、その時ネパールのルンビニ園に行きますと、現地の子供たちが、日本からはるばる来たということで、歓迎の意味を込めて「夕焼け小焼け」を、あの草むら(当時は未だ遺跡公園化されていなくて赤土と草むらと遺跡でした)で合唱してくれたのですが、思わず涙が出たのを思い出します。
そんなことで、今日のお釈迦様のお誕生日をお祝い申し上げるわけででございますが、え~、お誕生日の「誕」という漢字を諸橋 轍次の大漢和辞典を引きますと、20種くらい、この「誕」という字の説明が書いてあります。
喜ぶといった意味合いは、最近になって付け足されてのでありますが、本来、誕生日の「誕」という字は、「苦しい」「逃げたい」「いやなところ」「耐え難い」・・・といったこのような説明がずら~と書いてあります。
ハッピーバースディといったアメリカのような、「めでたい」といった意味はありません。
生まれ出るということは、苦しみの始まりであるという、釈尊の説法の根本であり、始まりであると思うのであります。
今月は、4月生まれの会員の方が13名もいらっしゃると聞いておりますが、後でお祝い申し上げることになっております。
今日は、そんな降誕会例会にお集まりいただき、ありがとうございました。


ガンが病気じゃなくなった時
~ほとけさまはあらゆるものに姿をかえて~
岩崎順子

みなさま、こんばんわ。今ご紹介いただきました岩崎順子と申します。和歌山県からやって参りました。
こうして仏教クラブの皆様方お一人お一人とご縁を頂戴しまして、うれしいな、と思いながら特急くろしお号に乗ってやって参りました。
今日は、よろしくお願い申します。
人と人のご縁と申しますが、その人と人が出会う後ろには、仏さまの大きな力があって、今日この場所に運んで来てくださったのだなぁと思っております。
今日は、決して上手には、お話できませんけども、心一杯込めてお話をさせていただきます。
そしてこのご縁をいただいたのは、曹洞宗の鈴木顕道さまです。昨年、私を京都での講演に呼んでくださいまして、そのご縁で今日はここに立たせていただいております。
拙いお話しかできないのですけども、その前に今日は皆様にお願いがあります。
さっそく、お願いしてもよろしいでしょうか?
「うん、うん」と言って下さってありがとうございます。
私は、手に原稿をもっておりません。皆様の目を見ながら、皆様が今どんな風に思っていただいているのか感じながらお一人お一人のお顔を見ながらお話させていただこうと思います。
メモをお取りになる時は、下を向いていただいてもよろしいのですが、それ以外は私と、喫茶店、もしくは居酒屋でお話しているように顔を見ながらお話を聴いていただいてよろしいでしょうか?
丸テーブルですので、向こう向いてメモを取ってらっしゃる方がお出でです。
もし、私の顔を見る為に腰をひねっては大変です。椅子をグルッとこちらに向けて聞いていただけると、楽に聴いていただけることと思います。そして少し、お行儀が悪いのですが、皆様のお顔を見ながらマイクを持って、あちこち動きながらお話させていただこうと思います。どうかよろしくお願いいたします。

今日のお話は「ガンが病気じゃなくなったとき」という、私が出版させて貰っております本の中の内容と同じなんですけども、決して癌が治りましたよ~というお話で はなくて癌と出会ったことによって、「生きるって何?」「死ぬって何?」「人とのつながりって何?」そして、何よりも一番感じたのは、「生きているのではなく、生かされていたんやな」ということでした。
人の計らいを超えた大きな力が、本当にあるんだなぁと、後で申し上げますけども、全身全霊で感じさせて貰ったのです。
そんなお話を和歌山弁も交えてお話をさせて貰います。

 私には3人の子供がおります。その子供たちが小さい頃に、夫が癌ということが分かりまして、その時一番上の子が小学校三年生。
その次の子が保育園の年長さん。一番下の女の子が4歳でした。男、男、女という3人の子供たちです。
そして私の夫は大変元気な人で、実は、私たちが出会ったのは、京都です。私が学生の頃、銀閣寺の哲学の道のすぐ近くに住んでおりまして、夫は吉田山に住んでおりまして、そこで出会いました。だから京都はほんとにいろんな思い出がある町です。
夫はすごく元気な人で、病院の診察券を亡くなった後で見たら、耳鼻科と歯医者さんの診察券しか持っていないような人生でした。
それで、生まれて初めて、「検診でも受けてみよかぁ」ということで、受けたのですが、それで、肺癌ということが分かりました。
「小指の爪ほどの小さい癌が見つかりましたよ、早期発見ですね。良かったですね。」ということでした。
子供たちにも、正直な形で伝えました。お父さんのこといっぱい応援してあげたら、お父さんの体の中には元気いっぱい、元気もりもりになるよ。それはお大人の言葉で言いますと、自己治癒力であったり免疫力であったりするんですが、元気もりもり君が癌をやっつけてくれるよと、一緒に応援してねと言って頼みました。
でも、二人だけ、ものすごく言いにくい人たちが居ました。それは、誰かといいますと、夫の父と母です。
私は、和歌山県の海南市という所で生まれ、結婚してからも海南に住んでいるんですけども、夫は北海道の小樽というところで生まれ育ったんです。皆さん、手を上げてください。北海道、行かれたことある方? では、その中でも、小樽に行かれたことある方は? はい、ありがとうございます。少しレトロな感じのレンガの倉庫があって、雰囲気のある町でございます。もし、行かれたことのない方がおられたら、ぜひ、足を運んでいただけたらと思います。
その小樽に北海道の両親がおりまして、その両親に伝えるのが一番辛かったです。一つは親が子供を思う気持ちでした。風邪ひきぐらいならよいのですが、病が大きくなればなるほど、なかなか親には伝えることができませんでした。
親というのは本来、子供が大きな病気になったら代わってやろうと思うのが親心です。もし、子供の目が見えんようになったら、自分の目の片方ぐらいあげても良いと思うのが親というものです。また、腕や足が無くなったら、子供の為なら自分の手足をあげたいと思うのが本来の親の心じゃないかなと思います。そんなことを思うと現実を伝えることはできませんでした。

二人居る姉弟の内、お姉さんは亡くなっていて、夫のガン。「どうする…電話で言う?」「やっぱり飛行機で小樽まで行くぅ?」と悩んだ挙句、夫が、手術の少し前だったのですが、飛行機で小樽に行くことにしました。
(夫からその話を)聞いたばっかりの義母から私に電話がかかってきました。
私が、「お母さん!」と言うと「圭介から今聞いたよ、圭介、癌になっちゃったんだってね。ほんとにいやだねぇ、でも大丈夫だぁ、嫌な事ばっかりでなく、良いことだってきっとやって来るよ。順子さん、大丈夫だぁ!順子さん、一番大変だと思うけど、頼むねぇ!」と言ってくれました。私はそれを聞いて思いました。私が一番大変なわけありません。あと数日で、ここ(胸)を切って肺を取り出さないといけない手術を受ける主人の方が大変です。皆さん方も数日後に肺を取り出さないといけないと言われたらどんなお気持ちになられるでしょうか?
心に余裕がある時は、優しい言葉をかけることはできます。でも、ショックを受けた直後の母だったら、夫の健康管理をしなくてはならない立場の私を叱りつけることもできたはずです。
「大変だねぇ」っと、労ってくれたのは、娘を亡くしたり何度も苦労して来た母だからこそ口に出た優しい言葉、気遣いだったのだと思います。
2011年3月11日に大きな震災が起こり、石巻の小学校の壁にこんなことが、書かれていました。
ぜひ、この言葉を持って帰っていただけたらと思います。「優しさは、悲しみから生まれる」とう言葉です。小学校の壁にどなたかが大きく書かれていたそうです。
誰も悲しみなんて味わいたくありません。誰も苦しみなんて味わいたくありません。
でも、もしかしたら、苦しみや悲しみを味わってこそ、人に寄り添って優しく、慈しみの心を生み出せるのではないかと思うのです。
義母の言葉は、まさしくこのことかなぁと思いました。

そして、夫の手術の結果が良かったら、私はこうやって仏教クラブの皆さんにご縁を頂いてこうやってお話しできなかったと思うのです。
すべて、縁、縁、縁で繋がっているんだなと思います。
そうなんです。夫は、手術を受けて、結果が悪かったんです。でも、夫には、もともと体力があったので、なんとか元気になっていきました。
手術を受けたのが4月、翌年の8月、声がかすれ始めました。夫は癌が次の段階に進んだことをきっと分かっていたのだと思います。
検診の日でもないのに病院に行きました。一週間経ったら検査の結果が分かるので病院に来てねと言われました。
検査の結果を待つのって、とってもしんどいですよね。どなたもご経験があると思います。妻の私もその間、しんどかったです。
そしたら、その夫が言いました。「ちょうど子供たちが夏休みやから店閉めて海の見えるきれいな島に行こう!」と言いました。
夫は、実は私と商売をする前には、ダイバーやったんです。海に潜る潜水士の仕事をしておりました。水の中に入って水質調査したり、また、車が間違って水の中に入ってしまったら、その車を引き揚げたりする、そんな仕事をしておりました。
その夫が海に行こうと言いました。明日から行こう!と言いました。その時に主治医の先生から電話がありました。
そのお話の内容は、掻い摘んで申し上げますと、夫の癌が末期に入り、余命も今年中ということでした。
私はこの話を聞いた時、私には人生最大のショックで、今年中って何?今、季節は何?と一生懸命考えようとするんですが、熱いのか寒いのかすらわかりませんでした。
台所まで走って行ってカレンダーを見ると「うゎ!7月の末や!」「8月、9月、10月、11月、12月」「あと五か月です・・・。」でも、五か月生きることはなかったです・・・。」

こうして、お話させていただく講演会は今日で、もう960回以上になるんですが、この癌の話、認知症の話、戦争の話、震災の話、子育ての話、等、お話させていただきながら北海道から九州まで行かせていただいております。
今だったら、西山浄土宗の光明寺様や禅林寺永観堂様、奈良の東大寺様、そして曹洞宗の永平寺様など、たくさんのお寺様でご講演させていただき多くの方々と出会いをいただきました。お医者の先生から夫の余命を今年中と聞いても、もう少し受け止めることができたのではと思うのですが、ところが当時の自分は未熟ですから、すっごいショックでした。頭の中は真っ白でしたが、私は、その電話にポーカフェイス、ポーカーボイスで応えました。
そして、そんな気持ちのまま旅行に出かけました。
子供たちも、まだ小ちゃいから、凄く楽しそうにワーイといって走り回りながら着いて来ます。
とても楽しそうでした。でも、私は、海を見ても、子供の楽しそうな顔を見ても夫の顔を見ても何を見ても、「今年中」、「今年中」という頭の中の張り紙が付きまといました。

海に着くと、夫は水着に着替えます。上は裸です。子供たちの脇に手を入れて、「お前たち大きなったなぁ!」と抱き上げていました。服を着ているとあまり分からないのですが、裸になると一寸見ないうちに、首から背中にかけて、めちゃめちゃ痩せているんですね。骨が出ていました。それでも、夫は海に入って子供たちとワーッと遊んでやっています。きっと無理をしていたんだと思います。
夜になると、「俺、すまんけど、しんどいから先に寝るワ」と、先に寝てしまいました。
今日は、皆さん方、お家に帰られたら、ベッドやお布団の中で横になってぐっすりお休みになると思うのですが、夫はもう、横になって休むことはできませんでした。掛け布団と敷布団を山盛り積んで、そこにもたれるように体を預けて眠ることしかできませんでした。
今でこそ思うんですが、私は夫が癌になるまで、夜、寝るのは当たり前、ごはん食べられるのは当たり前、こうやって歩けるのは当たり前こんにちわ!言えるのは当たり前やと思っていました。
でも、癌に出会って、あたり前のことなんて何一つなかったんや、全部有り難かったんやと気が付いたんです。
病気と出会う、震災と出会う、家族の死と出会う、皆さんそれぞれに大変なことをご経験なさっていると思います。
苦しいこと、味わいたくないけど、でも、苦しさを味わう時こそ、ほんまに大事なことがあったんやなと思い知らされました。
今までは無いものばっかり数えてきたんやなぁ・・・。
時間無い、お金無い、あの人何もしてくれない、そんな不満が先に出てくる人生やったんやなぁ、そう気が付けば、歩けること、こんにちわ!と顔見て言えること、生かされていること、ほんとに凄いことやったんやぁ・・・と心からありがたく思えて来るんですね。

そして・・・、お父さんは寝てしまったから、ちょっと外へお散歩行こう! と子供たちと散歩に出ました。
小さいから手をつないでくれます。
上のお兄ちゃんたち二人、上が「朝蔵」と書いて「あさぞう」いう変わった名前で、聞いただけで笑ってもらえます。
二番目は「漁次」と書いて「りょうじ」と読みます。名前のいわれをお話していると時間が足らなくなるので、お話を前に進めますがその二人のお兄ちゃんが昼間遊んだビーチボールを持って来てサッカーを始めました。
一番下の娘、蕗子「ふきこ」というんですけど、当時5歳でした。その娘と、もうちょっと歩こうかと言って歩きました。
ベンチがあったので、ここへ座ろう!ということで、座りました。『今日は楽しかったなぁ」と言ってお話していたのですが、私の心の中は、今年中に夫が居なくなる、ふき子のお父さんは居なくなるんや・・・このことでいっぱいでした。心の中は、パンパンでした。ゴム風船を膨らませていったらパン!って裂けるそんな感じでした。
それでも、顔は嘘をついて、ポーカーフェイスでベンチに座っていました。でも、そうしているうちに私の心の中で変化が起こってしまいました。
夫は、ホテルの部屋で寝ている。お兄ちゃんたちは向こうでサッカーしてる。ふき子と二人きりやなぁ・・・。と思ったんです。
本当は、ここんとこ恥ずかしいから飛ばしたいのですけど、でも、格好悪いけど本当のことをお話させていただきます。
娘と一緒に座っていると、まだあどけない娘です。手足もちっちゃいです。5歳の娘です。その娘の太ももに、いきなり顔を伏せて、恥ずかしいのですけど私、「えぇ~ン」と、いいえ、そんな可愛い泣き方と違います、もっとひどい泣き方やったと思います。
子供が嗚咽するように泣いてしまいました。
たぶん、癌と聞いた時からいっぱい我慢していた気持ちが、一気に出てしまったのだと思います。
普通、5歳の女の子やったら、お母さんがいきなり自分の膝の上で泣いたら、「おかあさんどうしたの?」と言うと思うんですけど、何も言わずに、ずーと私の頭を静かに撫でてくれました。私は5歳の娘の膝で泣きながら、こんなことを思いました。「ふき子、ごめんよ、ごめんよ、おかあさんほんとに弱いなぁ、ごめんよ・・・」と、言おうと思うんですけど、言おうとすればするほどよけいに泣けて来て、なお、ひきつるように泣いてしまいました。
その時思ったのは、、私はぜんぜんりっぱなお母さんではないし賢いおかんでもありません。でも、子供の心はどこにあるのかそれだけは大事にしてきたつもりです。でも全然違ってたんやなぁ、この子たちにどれだけ癒されて来たのだろう。どれだけ助けて貰いながら生きてきたんやろうと思ったら、また泣けてきたんです。それでも、娘は私の頭を撫で続けてくれたのです。
そして、たった一言だけ、私の頭を撫でてくれている娘の声が聞こえてきたんです。めちゃめちゃ優しい声で、「お母さん、泣いてるのか?」また、私は泣いてしまいました。
娘の膝の上で泣かしてもらいました。パンパンになって、もう破れると思っていた風船を少し緩めることができました。あとで、こんなことを思いました。娘は私を丸ごと受け入れてくれました。一つは「お母さん何で泣いてるの?」とその泣いている理由を聞きませんでした。そしてもう一つは「お母さん、こうしたら元気になれるのに!」とは言いませんでした。そして、三つ目のこれが大きいです。「お母さん、泣かんと頑張って!」と言いませんでした。
頑張れ!と励ますのは元来、素晴らしい言葉です。頑張ろうと思っているときに「がんばれ!」と言われると「よっしゃぁ!」とこうなるんですが、ところが、私みたいにボロボロになっている人に対しては、まるで、先の尖った刃物でグッサッと心を突き刺すぐらい辛いことやったんやなぁと気付かされました。
私も、今まで、どなたかの悩みを聞かしてもらって来たんですが、「無理せんときよ」といった後に、「頑張ろう」とか「頑張ってねぇ」と言ってなかっただろうか・・・と反省しました。
その後の私は、「何々さん、よく頑張って来られましたね、大変でしたねぇ」とお声をおかけできるようになりました。

そして、今日のタイトルで、「ほとけさまはあらゆるものに姿をかえて」と書かせてもらっているんですが、これは、このふき子の膝で泣かしてもらった時に感じたことです。
菩薩さまは本来すごく高いところにいらっしゃいます。でも、何か辛い思いをした人の所へはスーッと降りて来て、横に座ってくれて、悲しみが消えるまで、背中をさすりながら、背中に手を当てながらずーっと傍にいてくださいます。
そして、その方が深い悲しみから解放された時には、菩薩さまは、また高いところへお帰りになるのだと思います。
悲しみが一時間の方も居れば一年の方もいらっしゃいます。また、一生続く方もいらっしゃるかもしれません。それでも、ずーっと傍に居てくれて、この人、もう大丈夫やなと思ったら高いところに行かれるのではないでしょうか?
そうして、菩薩さまに助けてもらった人は、いっぱい苦しんで、いっぱい悲しんで、いっぱい泣いて、だからこそ、また次の方にも慈しみの心を差し出し、優しい言葉をかけられるのではないかなと思います。

この時は、私の娘、ふき子に姿を変えて降りて来て下さったんだなぁと思っております。

そして、ある時には、桜に姿を変え、ある時には、空に、海に姿を変え、そして、ある時には、ものすごい嫌いな人に姿を変えて、私の前に現れてくれているのではないかなと、思うのです。
仏さまには、阿弥陀さまのように見るからに優しくて、なにもかも受け入れてくれる仏さまも居れば、仁王様やお不動様のように「お前!何してんねん!どや!しっかりせいよ!!」」というようなグッと目を見開いて戒め励ましてくれる仏様もいらっしゃいます。
私は、どっちも慈悲深い仏さまだと思っています。
人間というのは、こっちは良い人、悪い人、こっちは好きな人、嫌いな人、こっちは幸福なこと、不幸なこと、と、私もそうですけど、一生懸命分けますけども、仏さまが、「もう、そろそろ、生まれた時に貰って来た仏の種、咲かせんかぁ?」と、いろんな辛い試練を与えてくれてるのだと思います。
私は癌になりたくありません。でも私たち家族に「癌」を与えて貰ったことは、仏さまからの恵みやったなぁと、これは、今の私は、疑うことなく思うことができます。当時は少し思うだけでした。でも、今は確信をもって思えます。
でも、また自分の器では受け止められない大きな困難が来たら、苦しんで右往左往するんだと思います。
でも、やっぱり、それも仏さまからの恵みやと、時間が掛かっても気付けたらうれしいなぁと思っております。

こうして私は、ふき子の膝の上で泣かせてもらったおかげで、仏さまの存在を知りました。

そして、自宅に帰ってきました。夫は、医師の先生と相談した結果、自宅で療養することにしました。
夫は体重が60Kg台でしたけども、最後は、30Kg台になりました。お風呂に入りたいと言うのですけども、お風呂に入りに行く体力も無いし、「もう無理無理!」と言っていましたら、近くに住んでる私の姉夫婦が来て、義兄が、「圭介君は死んでいく人間やから、圭介君をお風呂にいれようなんて言ってないよ。圭介君に生きる希望と力を持ってもらうために本人が風呂に入りたいと言うのなら、入れてあげようやないか、俺らにできることならなんでもしたらええやないか。」「圭介君、ローカを歩きたいやな?それなら歩かしてあげようやないか!」
自力で自分の足も動かせることができない夫を、姉と義兄と私で服を脱がせ、皆で力を合わせ、あちこちから支えて何とか少しづつ、普通なら2秒ほどで着く我が家のお風呂場まで10分も15分も掛かって歩かせました。当時は11月の末、寒かったのですが、家じゅうのストーブを全部ローカに並べて、丸裸の夫を歩かせました。
30何キロに痩せますと、ほんとに情けないぐらいガリガリです。皆で歩かせていると、これは家の中ですので、当然子供たちも居ます。本来自分たちを守ってくれるはずのお父さんが、今はパンツも履かず、時々白目をむきながら、お風呂場まで歩かされている、まるで子供たちの心の傷になりそうな光景だったと思います。
でも、その時、仏さまが姉に姿を変えてくれたのだと思います。姉が子供たちのところへ駆け寄って同じ目線になって、「今、お父さんは、病気やけど凄く頑張ってる。応援してあげてな!」と満面の笑顔で言ってくれました。
泣きながら言っていたら、子供たちの心はまた違っていたと思います。子供は、まず耳で言葉を聞きますが、その人の表情でその中身を感じ読み取ります。姉が笑顔で言ってくれたので、朝蔵が「お父さんのこと、応援しようぜ!」と漁次に言いました。
お風呂場まで、「がんばれ!がんばれ!」とお風呂場まで着くまで応援してくれました。
お風呂場まで着くと、どうして入れて良いのかわかりませんので、服を着たまま風呂桶に、夫を抱えたままジャブ!!っと入りました。
うっかり手を離すと顔がお湯に沈みますので夫の頭を必死に持っていましたら、夫が私の耳元で元気のないかすれた声でしたが、「ありがとう、ありがとう」と、頭を下げてくれました。
どうしても風呂に入れようと頑張ってくれた義兄は、もし何かあったらあきませんので、その時お風呂の外で見守ってくれていたそうです。
義兄は、お風呂の中で、夫の「ありがとう、ありがとう」という言葉と私の「お父さん、よかったなぁ!お風呂に入れて良かったなぁ!」という言葉を聴いて男泣きしていたそうです。後で姉から聞きました。
皆で力を合わせ頑張ったのですけども、夫の身体は日増しに弱っていき、そして、小樽から父と母が来てくれました。
きっと、眼が窪んで行相の変わった我が息子を見て、きっとびっくりするだろうと思っていたのですが、一人子供を亡くしている父と母は凄かったです。何も無かったかのような顔をして、「おい!圭介、お父さんたち来たぞ!元気になれぇ!」と言ってくれました。そして一週間一緒に過ごしたのですけども、その間に父は、髭の伸びた息子の髭を剃ってくれました。その時、夫は耳の遠い父親に一生懸命話しかけました。かすれた声でしたが、「親父!俺一度で良いから親父と二人で魚釣りに行きたかったぁ…。」父親は、当時忙しくて息子と二人で魚釣りに行ったことが無かったのだそうです。「圭介!元気になったら、白浜でもどこでも連れて行ってやるよ!」と、泣きながら髭を剃ってくれました。母は母で、夫の冷え切った手を撫で続けてくれました。
亡くなる前の人というのは体温がグンと低くなります。「順子さん、見てごらん、こうやって撫でてると圭介の手、温かくなるわ!」と、なかなか普段は触れない息子の手を触れる母は、ちょっと嬉しそうにも見えました。ところが、最後近くになると30分間撫で続けても、夫の手は温かくなりませんでした。
そして、何十分か経った時に母は私にこう言いました。「もう、圭介は、何の治療も何の方法も必要としていないのかもしれないね。
圭介は今、自分がここに居て、こどもたちもここに居る、それだけで幸せなのかもしれないね。圭介、幸せな子だぁ・・・。」って、言ったんです。もうガリガリになって動くこともできない息子に対して、「幸せな子だぁ」と言わないといけない母って、どれだけ辛い思いをしたんだろうなぁと思いました。
今日は、男性の方が多いです。お母さまの手、触られたのはいつでしょうか?
小さな頃はいつもお母さんの手の温かみを感じていましたけども、だんだん大きくなって中学とか高校になったら、母親の手を触る機会なんてなくなりますよね、次にお母さまの手を触る時は、お母さまが認知症になられた時や、御病気になられた時とか亡くなられた時であったりするのではないかと思います。

そうして、皆で力を合わせたのですけども、11月20日の朝早くに夫は亡くなってしまいました。
子供たちは、はじめ、夫の横に近づいてくることはできませんでした。
「お母さんは、お父さんがよう頑張ったなぁ、といってお父さんの顔を撫でたげるでぇ・・・。」と、言って夫の顔を触ったのですけども、子供たちは、全員、正座をして、しくしく泣きながらうなだれて、まったく顔を上げることができませんでした・・・。
時間が流れたと思うのですが、私には、はっきりとある場面が思い出されました。

それは、夫が亡くなる一週間ほど前、「雨戸開けてくれ、雨戸開けてくれ、」と言うので、雨戸を開けました。
「もう、お父さん行くんやて、お父さんにありがとうって言おうなぁ。」と、言って皆で泣きながら送ろうとしました。
ところが、夫は自分で自分の心臓を止めることはできませんでした。これって当たり前のことですが、でも、この時はじめて気付いたことがあるんです。
私は、かつて自殺をしようと思った人間です。だから、よけいに心に響きました。
夫は、まだ幼くて小さな子供の為にも生きていてやらないかん、年老いた両親の為には、死んだらあかん、一日でもたとえ一分でもええから生きてないといかんのや」と思っていたに違いありません。

生きようと思っても生きれない。
もう十分生きたので死のうと思っても死ねない。

その姿を見た時に、めちゃくちゃ大きいことに気が付きました。

人が生きているのと違う・・・生かされてたんや!!

思春期の頃、自殺も考えたことがある私ですが、そんな『命』を自分で絶とうとしてたんやなぁ・・・と。

いつか、仏さまが傍らに来てくれて、「もう、ええよ、こっちにお出でぇ・・・」と、すっと息を引き取って連れて行ってくれる。

人は、最後の一息まで、どんな姿になっても、どんなことがあっても、「生きているということに意味がある」ということを教えてもらいました。
生きるとか死ぬとか、治るとか治らないとか、そういう世界を超えた、向こう側の、生死を超えた世界を垣間見せていただいたような気がしました。
その時、頭で思ったとか、心で感じたとかいう、そんな感じではありませんでした。
何かに例えろと言われても、こう・・・、今も鳥肌が立ちますけども、頭からバケツでバサーッと水をかけられたようにして、『生かされてたんやぁ!!』と気付きました。

その場面を思い出しました。
そしたら、自然にこんなことをしてしまっていました。

前には、動かない夫が居る。横にはうつむき、泣いている子供が居る。

このままやったら、この子たちはお父さんが死んだという悲しい、傷ついた記憶になるんやろうなと思うと、私は夫に被せてあるお布団をめっくっていました。「お父さんと遊んだげるかぁ?」と言ったんです。
なぜ、遊ぶという言葉が出てきたのか、いまだにわかりません。
「遊ぶ」という私の言葉を聞いた小学2年生の漁次だけが、とことことこと前に進み出て、死んだ父親の顔を触りました。
生まれてはじめて対面する自分の死んだ父親の顔です。
「冷たいやんかよぉ!」「カチカチやんかよぉ!」と、声をあげて大きく泣きました。
それでも、子供の力って凄いですね。顔を触って泣きながらでも次にはパジャマをめくり上げてお腹辺りを触ったんです。
「お母さん、お兄ちゃん、早く!ふき子も、お父さんのお腹触ってみ!お父さん、生きてるみたいよ!早く!早く!」と言いました。
小学校5年生になっていた朝蔵も父親の顔に触りました。「ほんまやなぁ、冷たいなぁ・・・。」わぁーと声を上げて泣きました。
でもその後、漁次と同じようにお腹に触り「生きてるみたいなぁ!死んだらだんだん冷たくなってカチカチになっていくんやなぁ・・・。」
私は、その光景を黙って見ていました。
夫は、この体の中には居なくて、ずっと上から、自分の遺体の上で子供たちが遊んでいるところを見ているような気がしました。
「お前たちとは、俺はもう体が無いから、お前たちと一緒に飯食ったり、一緒に風呂に入ったり、時には叱ってやったり、褒めてやったり、そんな事、できないけども、今、しかり遊べよ!」と、遊んでくれた時間だったのかなと、そう思っています。
子供たちは、父親が退院してきた日には、父親の好きな音楽をかけ、皆で千羽鶴を折って首飾りにして父親の首にかけておりましたことを思い出しておりました。
そして、亡くなった父親の横に寝転んだり、顔をくっつけたりして遊んでいましたが、そのうち、嘘みたいのですが、漁次が父親の遺体の上に馬乗りになって遊びはじめました。

そんなことが、我が家であったのです――。

それを、後々新聞の方とかテレビの方、ラジオの方が取り上げてくださり、子供たちがその時どんな気持ちやったのか子供たちに聞いてくださいました。
「父親が死んだ時には、僕らも死ぬかと思うぐらい悲しかった。でも、お腹の上で遊んでいる時に、死んだらだんだん冷たくなっていくんやなと思いました。」
その時に触った感触、その時に聞いた音、その時に匂った匂いで、『命』というものを感じさせてもらったのかなと思っております。

お話の終盤に、次男の漁次君の書いた作文の紹介をされました。

おそうしき  
いわさき りょうじ

ぼくは、おそうしきのとき、とってもかなしかった。
おとうさんが、朝、6時ごろねむりながらしんでいた。
おでことか 顔がつめたかった。
でも、おなかだけが生きているみたいにあったかかった。
時間がどんどんたつにつれて、どんどんカチカチになってきた。
おそうしきのとき、おとうさんのしやしんが しあわせなかおになってくるのを感じた。
ぼくはもうあんまりかなしくなかった。
そして、もうてんごくで なかよくあそんでいるとおもった。
おぼうさんも ごくらくのてんごくで、とってもすてきなてんごくにいっているよといった。
ぼくは、あんしんした。

 

それから月日が経ちました。
「あんたらは私一人が育てたんやない、いろいろな人に育ててもろうたんや、人の縁で育ててもらったんやで、いつかそれを誰かに返していくようにしてよ!」と常日頃、子供らに言っております。

 

最後に、すみません!40分を過ぎてしまいました。でも、あと3分だけお時間をください。

そして、彼女は、お話の最後に、自らがご持参されたミニグロッケンを演奏され、その一分半の時間を、私たち会場に居る会員にリクエストをされました。

「お母さまのことを思い出していただいてよろしいでしょうか? なんで?と思われるかもしれませんが、皆様方と私には共通点がございます。いつか、この世を去って行きます。それが、一つの共通点。そしてもう一つは、何十年か前を思い出して下さい。お母さんが命をかけて産んでくれました。そして、誰かがお乳をくれて、誰かが抱っこしてくれて、誰かが学校へやってくれて、教えてくれて、誰かが働いて服を買ってくれて、家に住まわせてくれたんだ。そんなイメージをしてください。
大人になったら、自分一人で生きてきたと思ってしまいますけども、母親や周りの人が居なかったら、ここにこうして坐ってらっしゃらなかったと思います。

命の根源であるお母さまのことを感じていただけたらと思います。
亡くなられた方はそのお母さまを生きておられる方はそのお母さまを思い浮かべて1分半、私の演奏を聴いていただいてもよろしいでしょうか?

 

それでは目を閉じてくださいませ。
1分半、「家路」という曲を叩かしていただきます。
ドボルザーク 「新世界より」 家路 ieji – iwasaki.mp3(←クリックで聞けます)

眼を開けてください。それぞれの方がそれぞれのお母さまを思い浮かべられたと思います。お母さまは亡くなっても子供を見守ってくれているんだと思います。親孝行は親が亡くなってもできるそうです。周りの方に親切にすることが親孝行なんだそうです。
そして、仏さまも、どんな場所でもどんな時でも優しく見守ってくれているのだと思います。
今日は、こうやってご縁を頂いたこと、心より感謝しております。
日頃は、講演時間は守る自信があるのですが、今日は特別な皆様の前なので、仏さまのご縁を心の中で感じてしまいましたので、ついつい時間がオーバーしてしまいました。お許しください。お詫びします。ご縁に感謝します。ありがとうございました。


 


乾杯の発声
立部祐道副会長

お釈迦様は、4月8日のお誕生日。私は4月7日が誕生日。私の方が1日年上なんやと―。
私の伴侶は「じゅん子」といいます。
今日のお話頂いた岩崎さんと同じであります。漢字は曖昧にしておきましょう。
あえて説明すると、「クラブじゅん子」のじゅん子であるとしておきましょう。
福岡、宗像に住んでおります。岩崎さんほど若くはございませんし、仏さまのような笑顔も彼女は、持ち合わせておりません。
ちなみに、そのじゅん子がおればこそ、私はここにおれる。
じゅん子さん、ありがとう。
私の母、きぬえは、96歳で亡くなりました。
私は、その年をひとつ超えると、若い頃に宣言しておりますので、あと20年近く生きなければなりません。
ずーっと花を植え続けて参ります。
それでは、岩崎順子さんのお話を聞いて共に感動した喜びを元に、この誕生仏の周りの花のように私たちはなろうではありませんか!この花々のように仏教クラブの皆が生涯をかけて仏の心を拡散していこうではありませんか!  乾杯!!


 

※編集後記:このお話のレポートは、録音データから3日間に渡り書き起こしましたが、一部、読者に読みやすく内容をそのままに整理し、独断で文字編集した部分が含まれています。
会場では彼女の慣れたトークに惹きこまれましたが、正直に言って、彼女の960回を超える講演経験から来るのでしょうか、饒舌が邪魔をして、あまり私の心に響いていませんでした。
でも、何度も何度も繰り返し、改めてお話を聞きながら書き起こしていきますと、いつの間にか涙ぐみながら書き起こしている自分に気付きました。
実は、編集者の私も5年前に肺癌を患い、1/4の肺を切除しています。他人事ではなく、自分が家族を残し先立つこともあったはずですので、圭介さんの生き様や、残された妻の順子さんたち家族の生き様に感銘を受け、心から拍手を送りたいと思いました。辛いことがあった時、くじけそうになった時、またここに来てこのお話を読み返してください。

レポート:文・編集・写真:藤野正観



※以下、各席に置かれていた、レジメのOCR文字お越しです。内容が重複しますが掲載しておきます。

 

 

ガンが病気じゃなくなったとき
~ほとけさまはあらゆるものに姿をかえて~

              2018年4月13日   和歌山県海南市在住 岩崎 順子

仏教クラブの皆様、こんばんは。ご縁をいただいたこと、心より感謝しています。
ありがとうございます。

人と人が。出会う事をご縁があってと言いますが、そのご縁の背後には、目にはみえない仏様の計らいがあるように思います。
ガンと出遭った事がきっかけになり、当たり前と思っているものの中にこそ、とても大切なことがある事に気付かせてもらえました。
決して病気と闘う話ではなく病気のおかげで【いのち】【生きること】と向き合えたことをありのまま、そのままお話しさせていただきます。
家族が病気になったとき自分の無力さを思い知りました。無力な自分に向き合えたからこそ、人の計らいを越えた大きな存在の中で生かされていることを感じさせてもらえました。
誰もが、仏様からいただいている種をいつか花咲かせる、そのために、与えていただいた病気や死であったと心から思います。

 父親のおなかの上で遊ぶ
夫が自宅で亡くなった朝、3人のこども達は涙でいっぱいでした。でも、あることがきっかけでまだあたたかい父親の体の上でこども達は遊びました。顔やおなかにさわったり、父親の好きな歌を歌って、おなかの上に馬乗りになって・・。

「死んだら、だんだんカチカチになっていくんやなあ」と子どもが言いました。
悲しみでいっぱいだった表情は少しずつ変化していきました。
死を頭で理解するのではなく、父親を触り、遊ぶことで、五感を使って死を感じた時間であったのかもしれません。
末期で痛みがかなり出てからは抱き上げることや遊んでやることが出来なかった父親が自分の身体の上でこども達を遊ばせているようにも見えました。

頭で考えた死ではなくて、いのち、生きる、死ぬとい五感で教えているような時間でした。
強いところも弱いところも小さなところもありのままに見せていってくれたように思います。
お葬式の朝。小学校5年生だった長男がふとこう言いました。
「おとうさん寝たまま、なんも言わんと死んでいったけど、僕らにいっぱい、いろんなもの残してくれたなあ・・・。」

(当時、小学2年の子どもが、「おそうしき」というタイトルで作文を書いていました)

おそうしき  いわさき りょうじ

ぼくは、おそうしきのとき、とってもかなしかった。
おとうさんが、朝、6時ごろねむりながらしんでいた。
おでことか 顔がつめたかった。
でも、おなかだけが生きているみたいにあったかかった。
時間がどんどんたつにつれて、どんどんカチカチになってきた。
おそうしきのとき、おとうさんのしやしんが しあわせなかおになってくるのを感じた。
ぼくはもうあんまりかなしくなかった。
そして、もうてんごくで なかよくあそんでいるとおもった。
おぼうさんも ごくらくのてんごくで、とってもすてきなてんごくにいっているよといった。
ぼくは、あんしんした。

 

自分が末期ガンであると分かった頃、あの人が流した涙で忘れられない涙があります。
あるお坊さんが。いのちの期限も知ってくれていた上でこう言ってくれました。
「圭介君、こども達にあなたが残してやれること。それは、あなたの【生き方】と【信頼】それだけだよ。
あなた達のご両親が、あなた達にそうしてきてくれたようにね。
あなたがいなくなった後も、あの生き方をした圭介君のこどもだよとみんなが思ってくれるくらいに。
圭介くんのこどもなら、信頼できると思われるくらいに。こども達に、あなたの【生き方】を残してあげて。」
もう残された時間はない、その中で自分に出来ることは何か?何も出来ないのだろうか?焦っていた毎日。
その中で、自分の【生き方】を残すということ、その言葉の中に、逆に【生きることの光】を見つけたようでした。
生まれてからずっと、どんなときも何があっても両親にもらい続けてきたもの、与えてもらったもの、そして、今度は自分がこども達に残せるもの、本気で残せるもの。それを思ったとき、涙があの人の頬を静かにつたっていました。
忘れることの出来ない横顔でした。悲しみの涙ではなく、何かが内側から湧き出てくるような。とても静かに。本当に静かに。
「ガンが病気じゃなくなったとき(青海社)」より

 

  生かされている いのち
  生きようと思っても生きられない。
  死のうと思っても死ぬことができない。
  人は、生きているのではなく生かされている。

ということを言葉ではなく身体を使って教えてくれました。
病気の人、認知症の人、障害をもった人には、お世話をする人が必要です。
そういう方々を周りの方々が、お世話をしている形に見えますが、本当は病気の方々、認知症の方々、生涯をもった方々が自らの身体を使って、【いのち】【生きること】大切なことを教えてくれているのかもしれません。

 

どの人にも、どの人生にも、すべて意味がある。どなたに起こることも、すべてが必然だと思います。

ガンと出遭ったことを通して、「生きるって何?死ぬって何?家族って何?生きることの意味って?」そういうことに向き合わせてもらうことができました。
そして、生きているのではなく生かされていたのだということを全身全霊で感じさせてもらえたのは、ガンに出遭ったおかげでした。

 

いのちは、形を変えて・・・今を生きる

亡くなられた方の肉体は滅びますが、形を変えて受け継がれると思います。
生きていた頃に教えてくれたこと、見せてくれたこと、生き方。
それが、残された人たちが困難に出遭った時、受け止め乗り越える力、すなわち【生きる智慧】になること。
肉体はないけれど「生きる力、智慧」に形を変えて生きていくこと。
目には見えないけれど、その人の中で今まさにこの瞬間を生きていると私は信じます。
世の中には、情報が溢れています。ネットは多くの情報と知識は得ることが出来、便利です。
でも、智慧は人から人、心から心でなくては伝わらないのではないでしょうか・・・。

 

菩薩様 仏様はあらゆるものに姿を変えて

心が苦しくなったとき、話をただ聴いてくれる人の存在に、どれだけ助けられたか知れません。
ついついアドバイスや批判をしてしまいがちですが、ただ「そうかそうか」とそのままを聴く大切さを教えてもらいました。
心がぼろぼろの時、「しっかり」「がんぱれ」 という励ましの言葉はかえってつらいです。
人は、本当にしんどいとき、ただそばにいてくれる人、ありのままに聴いてくれる人が誰か一人でもいるということに、どれほど救われるか・・・。
強くなくても、格好わるくても、遠回りしてもいい。それもとっても素敵なこと。
落ち込んだり泣いたり、ありのままで、涙は心を楽にしてくれました。

 

菩薩様は、高いところに居られますが、悲しみ苦しむ方が居れば、降りてきて傍に座ってくださり、悲しみがいっぱいの人と同じ気持ちになってくれる。
ただ、傍にいてくれる。ただ、何も言わずに・‥。
やがてその方の悲しみがいっか癒された頃、そっと戻っていかれる。
そういう菩薩様のはからいが、その都度その都度色々な人に姿を変えて、目の前に・・・。
つらい思いをされた方は、人の痛みがわかる心をもらうことができるように思います。

今、増えている子どもの犯罪や悲しい出来事。
まるで、心の叫びのように。大人も子どもも、存在そのもの、ありのままの自分を認めてもらえなければ、生きることがつらい筈です。
次の世代を生きるどの子ども達の中にも【生きる力】があることを信じてやるのが今の大人の役目のように思います。

 

 仏さまの慈悲

できれば、健康でありたい、誰もが、病気より健康を願います。
でも、病気や死に出遭ったからこそ、「いのち」「夫婦」「親子」「人との出会い」に向き合えるチャンスをもらえたのかもしれません。

自らの弱さ、無力さを思い知ることで、周りの人の温かさに気付き、人間の力を超えた仏様の慈悲に気づかせていただきました。

いままでどんな時も、仏さまに見守られて、このままで幸せだったのだと。
いいことがあったときだけ、守られているのではなく、困難に出遭った時こそ、より一層、見守られてきたのだと。
「足らないものを数えながら生きる」ではなく、「足りているものに感謝しながら生かされている」ことを教えてくれたのは、病気や死でした。

初めは病気として捉えたガン。それでも時間の流れと共に全ては少しずつ変化していって・・・。
人とのご縁によってガンは病気という範囲を超えていきました。

苦しみや、つらさを体験された方々が、自らの人生や周りを恨むのではなく、人を慈しむ心に、慈悲に変えていくことが出来たとき、誰もが心の中にいただいている仏様からもらった種を花咲かせることが出来るように思います。
器の小さな私は、仏様の前で自分の無力さを知ることの連続でした。

 

大きないのちのめぐりの中で」というブログを作りました。岩崎順子で検索していただくと出てきます

 

【ガンが病気じゃなくなったとき 】青海社(せいかいしゃ) 著者 岩崎順子

ガンが、病気という枠を超えて見せてくれたもの、気付かせてくれたことという意味を込めてこのタイトルをつけました。
本を読むのが苦手な人にでも読めるような本です。

もし、いつか機会があったら読んでくださると嬉しいです。(アマゾン yahoo 楽天など)

おかげさまで全国での講演は、960回を超えました。心から心へ。いのちからいのちへ。
今日、今、この瞬間出会いをいただいている皆様 ご縁に感謝します。