7月(夏安居)例会

大谷会長開会の挨拶
みなさん、こんばんわ、 先ほども事務局長さんからもお話がありましたが、西日本は大変な有り様でございまして、未曾有の出来事でありますが、実は、私が昭和18年、19年、20年と島根県の寺におりました頃、その三年間に渡って豪雨に遭いまして、全部流された経験を持っております。
小学校の4年、5年、6年生という時に、阿弥陀さんを背負わされて、山に逃げたという経験もあるわけでございます。
そんな中で、昭和58年のあの山陰地方の大水害も、胸のあたりまで水がくるぐらいでありまして、全てのライフラインが分断されました。
私は、今は、東京にずっと住んでいるんですが、母から、その時の様子を聞きますと、その時、町内会の人からどうも危ないから逃げろと言われて、皆で山の中に逃げて、それから2か月間、世間とは音信不通状態だったと聞いています。
今、まざまざとこの50年、60年前の災害が思い起こされるのであります。
私の住んでいたその頃の寺は川の底にあるような寺で、後ろが川で、前が道路でありまして、濁流の中、牛が流れて行くのやら家が流れて行くのやら、全てこの目で見ておりますので、村の方々が後に電話をくれまして、私が阿弥陀さまを背負って避難したことに、「みんな助かったのは、阿弥陀様のおかげですね」と心からのコメントを頂いたのですが、その頃の私は素直に聞くことができず、「もし、あのまま阿弥陀様を背負った私も流れていたらどうなるんだ?」「神も仏もありゃしない」とこういったことでございましょうか(笑い)
「人間というのは、大変都合よく考えるものだなぁ・・・。」と、その時、考えたものでした。
そんな中で、今回の大水害で多くの方々が災害に遭われ、犠牲になられたことに対しまして、謹んでお見舞いを申し上げる次第であります。
で、本日は、花扇太夫様のお話をお聞かせいただくことになっておりまのですが、私は、今、浅草に住んでおりまして、東京は、今日からお盆に入っております。山門の横門を隠れるように抜け出しましてここに出て参りましたが、今晩中に帰らないと首になることになっておりまして、この例会が終わりましたら、直ぐに帰らせていただきますが、その東京の浅草なんでありますが、やはり江戸文化が色濃く残っておりまして、台東区長の服部さんが、中心になりまして、江戸ルネッサンスという名目で今年から東光塾という塾が私の寺において発足いたしました。
非常に江戸文化の香り高い隠れたさまざまな歴史文化を掘り起こしながら、東京都の基は何か?というようなことも明らかになるのではと思っておりました矢先に、こうして今日、太夫様のお話が伺えると、たいへん楽しみにしているところでございます。
今日は皆様と共に有意義なひと時を過ごせますことを喜んでおります。
今日は、お暑い中、ようこそお出席いただきまして、ありがとうございました。(拍手)


名義変更報告 (京都信用金庫常務理事の中田氏に代わり、理事の廣瀬朱実氏に会長より会員の証が渡された。)

今ご紹介いただきました京都信用金庫の廣瀬でございます。
前任の中田がですね、この6月の27日付けで退任、退職ということになりました。
皆さまには、ほんとうにお世話になりまして、で、この会のことを本当に楽しみに毎回出席していたことを私も知っておりますし、皆様方にきちんとしたご挨拶もできないまま、退会することになってしまったことはたいへん失礼な事であるということで、皆様によろしくお伝えくださいということで、私、承っておりますので、この場をお借りしまして、中田に代わりまして、そのことだけはお伝えさせていただきます。
私は、この6月27日に理事ということで選任されまして、この会に出席させていただくことになりました。
前任の中田同様に皆さま方とぜひ、親しくさせていただいて、この会の一員になれればと思っておりますので、今後とも末永くよろしくお願い申し上げます。


 

太夫のひとり言・生かされて
島原 花扇太夫(はなおおぎたゆう)=本名:服部佳子さん

島原 花扇太夫
京都生まれの京都育ち。
先代尾上菊之丞師に日舞を学び、3才にて初舞台。
宮内庁神楽を多静子師に学ぶ。
人間国宝山村たか師に地唄を学ぶ。
華頂短期大学幼児教育科卒業。
幼稚園教諭を経て島原の世界へ入る。

平成3年度より各分野の芸術家とのジョイントをはじめ、毎年恵まれない子供たちの為に「チャリティー花扇太夫の会」を催す。島原の太夫文化を残す為に各方面にて講演を行い、太夫の存在を多くの人たちに理解を得て、太夫文化の伝承に力を注いでいる。現在同志社女子大学に在学中。「太夫になった京おんな」を出版した。


映像(約4分)より、ナレーション部分
ここは、京都島原。置き屋の輪違屋(わちがいや)
江戸の昔から伝わる「かしの式」といわれる儀式が今、始まろうとしています。

二人の少女は、禿(かむろ)。
その昔、禿はやがては太夫になる定めでした。
曳き船と呼ばれる仲居さんは、いわば太夫の付き人です。
太夫を船に例えたことから、曳き船と呼ばれるようなりました。
そして、松の位の太夫、花扇がようやく姿を見せます。
松の位とは、秦の始皇帝が御行きの途に雨宿りをした松の木に大夫(たいふ)に封(ほう)じ、その位を授けたという故事から授けたと言われています。
いわば、太夫の最高峰なのです。

とさといわれる杯を二度回すのには意味があります。
一度目はお客様の顔を映し、二度目は御返杯で太夫自身の顔をそのとさと言われる杯に映しているのです。
選択権はあくまでも太夫に有り、それがかつての太夫の地位の高さと誇りの現れでした。

花扇太夫こと、服部佳子さん。
最後の太夫と呼ばれる一人の京女。
廓の舞台に自分の舞台を見つけた一人の女の人生模様・・・。


ここからご本人のお話

おおきに、花扇でございます。
えぇ・・この映像から見ていただいたら、別人28号のような感じで皆様の前に現れました。
まぎれもなく、事実、私でございます。
いつもやったら、ああゆう恰好(映像)を致しまして皆様の前に出てくるのが、普通どすけどな。
今日はこんな普通の恰好で、堪忍しとおくれやす。

ただ、ここは輪違屋のお座敷やと思て、ここへ、一人の太夫が出て来て、ぺちゃくちゃと好きなことを言います。ま、独り言を言いますので、どうぞ右から左に聞き流してもろうたらけっこうどす。一寸の間だけ、うちの独り言にお付き合いしとおくれやっしゃ。お頼の申します。

島原

(京都の)皆さんは、もちろん島原という地名をよくご存じやと思いますけども、私もいろんなとこへお人と良く行くんですけども、特にホテルの宴会などに呼ばれて行きますと、お客さんが、「花扇さん、太夫さん、遠いとこから来やはってんねぇ、昨日から泊りがけで来やはったんですかぁ?それとも、飛行機ですか?」とか言われるし、「へぇ?」とゆうたら、九州の島原から出てきたと思わはるんどすねん。
「いやいや、それは九州の島原どっしゃろ?うちの言う島原ゆうのは、京都のどっちかとゆうたら中央市場の近所にある島原ですねん。そやから、さっき来たとこでっせ。」とゆうんどすけども。
みなさん、よう間違えやはるんです。九州の島原と、別に関係がないと言えば関係がないし、関係があるゆうたら関係があるんどすねん。
もともと島原とゆうのは、天正17年(1589)京都の二条の柳町に秀吉さんが京都の発展の為に遊女の 町を作らはたんです。そこが始まりどす。
いわゆる、花街というもんの はじまりかもわからしまへん。そこに遊女というもんを作って、戦(いくさ)から帰って来るお侍さんがそこでちょっと一服したり、あるいは京見物したり、ちょっと遊んで帰ろかというふうに、秀吉さんは、京の発展に気を使わはたんです。
ほんで、そこにずーっと居てたら良かったんですけど、やっぱりここは、二条城の近くで、高貴なところに遊女街があったらあかんとゆうので、六条三筋のとこへ移転したんどす。六条三筋の時には、新屋敷とゆうたんどす。この時期にいわゆる太夫の文化が大きく花開いたんどす。六条三筋の時に、はじめて太夫という呼び名もできたんどす。それまでは、私等のことを「あそびめ」と呼ばれていたんどす。あそびめというのは、遊女と書くんどすけども、意味合いは、皆さんは、普通やったら、男 の人に遊ばれる女とゆう解釈が多いと思います。
また、これ、全然違うんどす。ほんまの遊女(あそびめ)というのは、「神と遊べる女性」のことを言いますんどす。それが、後に遊郭の時代になってから、だんだん、皆さんの思たはるような意味合いになって来たんどす。
だけど、あんまり、「あそびめ」という言い方をすんのもあれ(偉そう)やということで、そのじぶん(頃)、六条三筋の太夫さんたちは、非常に勢いもできて、今宮のとこにありますね、四条河原の所の空いてる舞台を使って、そこで、遊女たちは、いろんな踊りをしたり、いろんな舞を学んだんどす。
そこで、あまりにも秀でている舞を舞う人、能を舞う人、唄を唄う人達をただ単に六条の遊女と呼ぶわけにはいかんということで、中国の故事に習って、全ての文藝、芸事に優れている人に与える称号として、太夫(たいふ)と名づけたわけです。これがのちに太夫(たゆう)と呼ばれはじめ、その時代から、島原に太夫といわれる女性が存在するようなったわけどす。

その時代のある日、京都所司代の板倉重宗さんが、市中を廻ったはたんどんな。その時のあまりにもきらびやかな、ええお籠が通る、あるいは、ものすごい綺麗な女性の行列が通るんどすけども、その時に自分が馬から降りて挨拶せんとと思うたけども、用事があって、家に帰ってから、「さっき、見た高貴なお方は、いったいどこのお方や?」と家来に聞かっはたんどすな、そしたら家来が、「あのお方は、六条三筋の太夫さんです。」
普通やったら、お昼から綺麗な女性を見たらうれしおっしゃろ? いやや、といわはる人はないと思うんですけども、ま、板倉はんは、前の日に奥さんと喧嘩しやはたんか、あるいは好きな人にふられやはたんか・・・、まぁ、昼間からそんな綺麗な遊女を見て、頭にカチンときたんどんな(「どすな」だが、「す」は発音しない)
六条三筋にこうゆう遊女が居るのはあかんとゆうので、その日のうちに「一日で移転せよ!」という命令が出たんどす。
「一日で引っ越しせよ!」とゆう話は無理な話です。
と、いうことで、結局三年かけて、六条三筋からもっと西の地へ行けと命令が下ったんどす。
この命令が下ったのには、他に政治的な意味もあったようで、豊臣から徳川へ変る時やから、豊臣の作ったもんはすべて排除せよと言う徳川の意向があったんどす。
最初の天正の時、秀吉さんが作らはって、秀頼さんの時に六条三筋に引っ越したのですけども、徳川になって、豊臣の作ったもんは嫌なもんでっさかい、全部排除しようとなったんどすね。
それで、三年かかって今の地、西新屋敷というんです。島原の地へ移ったんです。ここは、通称島原とゆうんですけど、地図には島原という地名はおへんねん。原っぱの真ん中にポツンと島のようにできた廓やった。ほんまに何もない原っぱの真ん中にできたんどす。
それと、その引っ越す騒動が、「はぁ、ほんまに島原の乱のように激しいもんやったなぁ・・・。」と、この二つから、通称として島原と言われるようになったんどす。ちょうど、その命令が出た寛永の十六年に島原の乱が勃発し、移転先の新西屋敷の通称が「島原」となっていったんどす。

かしの式

そこに、今、私を含めて、現在三人の太夫が存在しております。
たった三人、ほんまに三人どすねん。私が入った時も三人どした。上に二人の先輩が居やはりました。それから五人に増えて、また二人になり、何やかんやゆうて、今やっと三人どす。
まぁ、三人のうちでも一番古いのが私ですので、居て居んようんなもんですけども、やはり、島原の文化を残さないといけないと思いながら、いろいろ頑張っております。
さっき、(映像を)観ていただいたように、今日は衣装も着ていませんし、皆さんの前で「かしの式」、貸します、借ります、という儀式もできませんので、(映像を)観ていただきましたけども、ああやて最初に禿(かむろ)二人をおいて、お盃の儀式をする。これを「かしの式」、私を貸します、借ります、という儀式でございます。
これは、どんなによう知ってるお客さんでも、毎日通ようて来やはるお客さんでも、この「かしの式」をしなければ、太夫はお座敷に出られえしませんのどす。
芸妓さんや舞妓さんのように「おおきに」ゆうて直ぐにお座敷に出られえしません。出られえへん、出えへんのが、太夫でございます。

というのは、その「かしの式」をしている間に、「今日はこのお方を私のサロンに招いて良いお客さんかどうか太夫が見定めるわけでございます。私のサロンに招くお客さんやないと思うたら、太夫は二度とそのお客さんの前には姿を現わさしません。
これが昔のいわゆる正五位の太夫の誇りでございます。今は、「あかん!いやや!」ゆうて出えへんとゆうことは、おへんけども、この「かしの式」の儀式は必ずするわけでございます。

衣装
まぁ、それで、お茶を点てたり、香道したり、あるいは舞を舞(もう)たりしながら、お客に楽しくひと時をサロンで過ごしていただくというのが私たちの仕事でございます。
ただ、太夫は成り手がおへんねん。そりゃぁそうどうすわなぁ、今日みたいに暑い日でも真冬に着るような衣装着てね、あれ全部綿が入ってますねん。
真冬の衣装を着るは、頭は、重たいは、常の頭でだいたい5~6Kg乗せてます。
今、私は髪の毛を切りましたが、昔は全部自毛で結うておりました。今の後の二人は、自毛だとゆうております。
まぁ、あんなかさばって暑苦しい衣装着て皆さんの前に現れたら、そりゃぁ、今日やったら、皆さんも暑くるしゅうて、大変どすわ。(笑い)
そやけど、これは昔からの太夫の形どっさかい、なんていうんです、宮中とおんなじでっさかい、絽の衣装なんておまへんのどす。絽というものを持たないのどす。そして、あの赤い襟も返しております。
これは、私たちは正五位の位をもってるということを表わしているんどす。
なぜかというと、赤い襟を見せるということは・・・、昔は赤い色の衣装を身に着けるということは、位の高い人にだけ許されていたんどす。
全部、色が決まってたんどす。正五位の位は、赤とか紅とか朱とか、許されていたので、常に赤い襟を見せて、正五位の位を持ってるということを表わしてるわけでございます。
お手元の写真をご覧頂くと、襟が返っております。
よう、女性のお方は、「太夫さん、ちょっとすんません。襟が・・・」と、ゆうて直してくれやはるんどす。「いやいや、違いますねん、これはわざと襟を返してますねん。」ということで、赤い襟を見せて正五位の位であるということを象徴しております。
帯は、前帯で「心」という字に結んでおります。だから、私たちは前帯の心の上に手を置かぁしません。必ず帯の下に手を入れております。
「私は、お客さんの前でいっさい嘘はつきまへん。私の心は全部お見せいたします。」嘘は一切つきませんという意味で、心という字を結んだ帯をしといます。それ、おおきな嘘どすわなぁ・・・。(笑い)
それで、あとはメインの衣装、打掛を着ます。で、足は年中素足。寒い寒い冬に雪がしんしんと降ってる時でも足袋を用いません。素足でございます。
これは何かといいますと、昔は、官位ある方は全部素足どした。やっぱり陛下に直接面接するというので、昔、お公家さんでも足袋を用いなんだんどす。
そんなことから、太夫も正五位の位を持っているので、足袋を用いなんだというわけでございます。
太夫は、昔から宮中との関わりがもの凄いあったんです。

「この衣装を着るのに、いったい何本の紐を使うたはるんですか?」と、よう質問を受けるんどす。何本やと思はります?(会場???)
その時によるんですけども、「30本ぐらいですか?」「10本?」いやいや、宅急便と違います、そんなぐるぐる巻かれてどないしますねん。(笑い)
実は、この衣装を着るのにたった一本の紐どすねん。
あかーい、ながーい一丈(約3.3m)の紐。これ一本で30Kgの衣装全部結わいています。
これは十二単と同じで、最初から一本の紐で結いますので、ほどく時も、「裳」の紐を抜けばぱさぱさぱさと全部抜けるわけでございます。
その衣装がほどけた後、長袴の格好で向こうに行きますと、残された着物の形、様子を見て「裳抜けの殻」と呼ばれるようになったんどす。
そういうぐあいで、私たち太夫の衣装も重たいけども、楽に見えるようになってます。

まぁ、そんなふうにしていろいろやってますけども、島原ゆうのは、ほんまに、祇園町やら宮川町やらと違ごて、さみし~い町になってまいりました。
これはやっぱり、うん、どういうのか、太夫自身も少ないし、皆さんが来てくれはることも少なくなりましたんで、それでもね、やっぱり、この文化だけは・・・、もっといろろあるんですけども、お話してたら時間がなくなりますので、今日は、かいつまんでしかゆうてしまへんけど、とりあえず、すごい文化を凝縮したぁるもんどす。

太夫と男はん

私たちのこの装束、この形になったのも明治の初めから。それまでは、もっと簡単に頭くるくるっと結うて、もっとかる~い指しもんをそっと指してたんどす。
なんで、こんなようけ指すんやといいますと、これもどっちかというと、男さんが悪おすんやな。これは・・・、ある時にね、お座敷に毎日通たはるお客さんがいやはったんどす。毎日ごひいきにしてくやはるお客さんどすわなぁ、今でもそうでしゃろ?皆さんどこか飲みに行こかということになったら、やっぱり気に入った女性がいるとこへ行かはりまっしゃろ?そして慣れてきたらちょっとご飯でも食べに行かへんか?とゆうて、誘わはりましゃろ?
誘わはたこと、おへんか?(会場の男性を見渡すが皆ニンマリ笑い) ありまっしゃろ?(ニンマリ)
で、ご飯食べに行った・・・次に「何かこう(買う)たげよか?」「いやぁ、うれしいわぁ!」となって何かこうたげやはりまっしゃろ? ねぇ、だいたい皆さん、そんなことしてる、ゆうような顔したはりますわ(笑い)
ほんで、最後にね、必ずゆわはる(言う)ことがありまんねん。「ご飯食べに行ったり、なんでもこうてくれはる、良いお客さんやわぁ!」とおもてたら、
最後に、「なぁ、どうや?」・・・って、いわはったことありまっしゃろ?(笑い) 笑わはるということは、そうですわなぁ。
それと一緒で、毎日通たはるお客さんが、太夫さんに、そういうことをいわはったんどっしゃろな。

太夫の誇り

「一夜の妻になってくれへんか?」と、そしたら、その太夫さんが、「ちょっとお待ち願います。」とゆうて自分のお部屋に帰らはたんどす。
お客さんは、それは喜んで待ったはたんどす。そこへ、ばーっと入ってきゃはった太夫さん。その姿を見て、そのお客さん、驚かはたんどす。
頭にはいろんなもんが指したぁる。家に伝わってる財宝宝石を全部指してきた。金銀、珊瑚、鼈甲、やらいろんなもんどす。
ほんで、衣装も、素晴らしい衣装を何枚も重ねて、バーン!と出てきやはたんどすさかい、そのお客さん、びっくりしやはたんどす。
ほな、その太夫さんが、「今、私に一夜の妻になってとおっしゃいましたね。私は喜びまっせ、うれしおっせ。そやけど、見とおくれやす。私はこれだけの身分の女性でございます。もしか、私を一夜の妻にしてくれやはるんどしたら、末代まで私の家の面倒をみてくれやはりますか?」と言わはったんどす。
「どう、おしやす?」「面倒みてくれはりますか?」「そやったら、私、かましまへんけど・・・」
なかなか良い返事が聞けぇしまへん。ま、あたりまえどすわな。「いや、いや・・・、」と、お客さんが言わはった時、太夫が、「色恋とゆうもんは、お金に換算するもんやおへん、もしか、私がほんまに心からあなたのことが好きになり、あなたが大切やと思うたら、私の方からこんなもん全部捨てて、あなたの元へ参ります。私の気持ちがそうなるまで、どうぞ私のところへ通てきてください。」じょうずに、商売しやはりましたんどすなぁ。(笑い)
それで、そのお客さん、上手に騙されて、ず~と、毎日通わはったということでんな。
それが、今でも続いてますのやな皆さん、そのけなげな性格は。(笑い) その名残で、太夫は今も頭にいっぱい指してます。
頭にいっぱい指して、重たいもん着て、「私に頼んだら高いで」と、「私に頼んだら高うつきまっせ!」これ、値段表示ですわ。
そやし、私が値段言うとしたら「高いえ~」とゆうてるように、衣装で値段を表示して出てるようなもんどすねん。それが、太夫の形となっております。

なぜ、太夫になったの

私が、「なんで太夫さんなったんや?」って皆さんがよくいわはるんですねん。うちも「なんでかなぁ・・・。」と思うんですけども・・・。
うち、自分から「太夫さんになる。」ゆうたんと違うんどすねん。
実は、ある時に、島原から「観光用の太夫さんにならぁへんか?」ゆうて探しに出て来やはたんどす。京都市の観光協会にいわっはたら・・・私のとこへ来やはったんです。
なんでかといいますと、若いころ私は、華頂の幼児教育出て幼稚園の先生してたんどすねん。そやけど、合わしませんねん、幼稚園の先生がね・・・あんまり。
さっきも檀王さんのご住職(司会の事務局長)にゆうてたんですけども、檀王さんの保育園に教育実習に行ってたことがありますねん。
それが、お昼寝の時に園児を寝かして、自分らは他のことしなあかんのに、寝かしながら自分も寝てしまいまい、それで、子供に起こされて目が開いたという大変変わった学生でございました。
そんな私が、幼稚園の先生は合わないし・・・と迷っている時に、十二単を着いひんか?というお話があって、着たかったので受けたんどすけど、その時の名簿が京都市に記録があって、観光協会が、「どうや?」といわはたんです。けども、私ちょうどその時、結婚した時どしたんどす。「それは無理や・・・。」とゆうことでお断わりしたんです。
そやけど、その時、私が踊りを習ろうてた、人間国宝の山村たかさんのとこへ、誰か居ないかということで行かはたんどす。そしたら師匠が「佳子さんやったら良いかもしれで私が電話してあげまっさ」ということで電話が掛かってきたんどすねん。
「佳子さん、こうこうこうで、島原でアルバイトしいひんか?」「いやぁ、うれしい! 私、するわぁ!」ゆうたんが、このぉ・・、こない(このように)成ったんどす。
最初は、アルバイトですから観光客が来た時だけ出たらよいので、これは、主婦のアルバイトにはちょうど良いわと思うて承諾したんですけども、観光のためとはいえ、実際に出るまで1年近こういろいろ修行させられたんどす。「なんでアルバイトやのにしんどいめしなあかんのかしら・・・。」と思いながら修行したんですけども、これが、太夫になったきっかけでございます。

それから、間もない頃、やめんならん時があったんですけども、私が、「やっぱり太夫続けたい。」ということを輪違屋さんにお願いしたんどすねん。
ま、こんな太夫さんもなかなかなかったと思うんですけども、ほんまに、異端児でございました。
そんなことがあって、「すぐやめるやろ、2年も持たぁへんやろ・・・。」と思われていたそうですけども、そんな私を抱えて(雇って)くれやはたんどす。
それで・・・、2年どころかぁ・・・何年してるかゆうたら年がわかるのでゆわしまへんけれども、づーっと続けて参りました。

天国から地獄へ

そんな中で、私、ある日、天国から地獄へ堕ちたんです。ちょうど3月に木屋町のとこで道中のお稽古をする日どしたんです。雅楽と合わすために舞をお稽古しようとしていた日の朝、突然倒れました。
そのまま病院へ行ったんですけども、右半分が無かったんです(感覚的に)。つねろうが叩こうが何にもあらぁしません。「右半身、どこいったんかしら?」と、いうような感じでした。
そしたら、お医者さんが「脳出血や」ゆわはたんです「脳出血!?そんなん、すぐなおるやろう・・・。」と気軽に思てたんどす。私はものすごく気楽な人です。けれども、主人や子供に「一生、車椅子やでぇ・・・」と言われ、「一生歩けない」という宣告を受けました。
それでも、「治るわぁ!治って見せる!!」と思てたんどす、私は。ものすごい気楽な人ですねん。
それからたいへんな、リハビリが始まりました。ご飯食べる時も涎前掛けをして、ぜんぜん右手使えぇしません。はじめて左の手で食べます。どうにかスプーンに取って口に持ってきて入れたら、こっち側(右)の感覚がありませんので、こっち側(右)からそれが全部出るんどすねん。
出てる感覚もありません。入口(口の左側)出口(右)ですわ。これはリハビリのいっかんでっさかい、食べさせてくれはることもなかったんです。
もちろん、主人も、自分でやれということで、食べさしてもくれませんでした。

「なんで、こないなったん?なんで、この私が・・・。」と、もう、物にあたり、投げつけました。泣きました。大声で叫びました。
その時、主人が言ったんです。「泣くだけ泣きなさい。叫びなさい、あたりなさい、それで治るんやったらそうしなさい。治りたいのやったら、努力しなさい。」その一言です。私は、その時、「太夫さんでけぇへんなぁ・・・道中でけぇえへんなぁ・・・・舞も舞えぇへんなぁ・・・。」天国から地獄ってこういうことやなぁと、思たんどすねん。
だけども、何とかして、もう一度復活しよう!もう一回やってみようという気持ちが出ました。
右手が使えぇへんかったら左手がある。こう思たんです。左手があるやないの、そのために人間は両方の手があるんやなと。 動かなくなった右手のパワーを左手に送りなさい。送ってるうちに必ず両方とも自由に動くようになる。と、いうことで、時がたちますと、右の手が動くようになりました。でもやっぱり今は細かいことはできぃしません。ですから、衣装を着るのも左手、字を書くのも全部左手です。右手を使わないとダメやいわはるんどすけども、やはり右手を使うのは、むずかしいんどす。でも、衣装を着るとシャンとするんどすけど、歩くときには杖を使うし、杖を使わんと怖いですし、だけども私、リハビリしている時に思ったんです。「人間誰でも病気にはなる。病気になっても病人になったら、もうアウトどす。」だから「病気になっても病人になるな」といのが私の格言です。これは、病気になっても本人の心が萎えてしまったら、ほんまの病人になってしまう。だから、病気になっても「そら、人間やも、しかたないやん、だれでも故障するし、病気にもなる。治したらいいやん!」 その前向きの気持ちだけで今日まで来ました。

人生前向きに

私、元気な時に「今、バタっと倒れても何の悔いもないわぁ!」と「今、ここで死んでも何の悔いもない。ええ人生やと思う。」と、ようゆうてたんどすねん。これ、嘘やと思いました。自分が倒れた時、どれだけ悔やんだことか、悔いがないように人生全うできたら最高やと思います。
でも、誰でも「あれ、こうしといたらよかった・・・。」と、ちょっとは、悔いが残ると思います。
うち、あれから、「人生に悔いがない」なんてゆうたことおへん。人生に悔いがあって、いろんなことができるんやと、こう思うたんです。
今、私は、こういうふうにして、太夫の文化を知ってもらわなあかんと思うてお話させてもろてます。また、今、私は生かされている。このことに感謝し、自分の与えられた使命を果たそうと、頑張っているのでございます。
また、病に侵された時、どう立ち向かって行ったらよいのか、「心の強さ」を皆さんにお伝えしたいと思いました。
そりゃぁ、ほんまに情けなかったぁ、でも情けないと落ち込んでいるうちは治らしまへんどした。3年間自分ひとりで表に出ることができなかったんです。
ストレスがたまりました。そんな時、あの野球の長嶋さんの姿を見たんどす。あの格好で皆さんの前に出てきたはる。それを見て、私も恥ずかしがらずに絶対そうならな、あかん!と思いました。
それと、女性特有のストレスですけど、ある日、皇室アルバムを観てたんどすねん。美智子さんにしても雅子さんにしても、皇室に嫁いだら自分があっちに行きたい、こっちに行きたいゆうても、必ずお着きの人が付いてきゃはるし、これ、買いたい!ゆうたかて、自由に買えません。不自由やとおもいまっせ。
そうや!、私、皇室に嫁いだと思たら良いねん、皇室に嫁いだとおもうたらこれぐらいの不自由など不自由やない!と思えるようになったんどす。
私、夜ね、夜間保育所やってますねん。皆さん方を預かる・・・。お酒出して・・・。夜間保育所。
そこにも、保母さんが居やはります。そこにもね。私が皇室アルバム観たその時から、その保母さんたちに、私のことを今日からママと呼ばないで・・・今日から私のことお妃様と呼んで。」
そう思たらねぇ、外へ出たいとか買いものに行きたいとかそんな気持ちがなくなったんどす。思い方でストレスがなくなりました。

それでも、だんだん、だんだん、歩けるようになって、あちこち出かけられるようになりました。
二本の足で歩ける素晴らしさ、これも教えてもらいました。
それまで、形だけで感謝とゆうてはいましたけど、この病気になってから、ほんまの意味でこころから感謝できるようになりました。
また、病に向かって前向きに歩くということも教えてもらいました。

ですから、このように講演する時は、重い衣装を着けて講演します。・・・リハビリの為に。
「今日も衣装を着るんですか?」と聞いたら、「いや、ええ。」「なんで?」と聞いたら(小声で)「予算がない」ということどした。(笑い)
ありがとうございました(拍手)


湯通堂会員より
熊本地震復興支援コンサートのパンフレット配布
熊本大地震被災支援で2016年12月に支援した資金を元に、7月29日、熊本地震復興支援企画として「いのちのめぐみコンサート」を開催する運びとなり、仏教クラブも協賛という形で参加。主催のNPO法人Samayaプロジェクト21は、仏教の裾野を広げる活動がコンセプトということで活動。
この件の報告は、また後日、会員スピーチで報告されるとのことでした。

 

 

 

 

 

 

 


乾杯発声 亀谷会員
ご指名でございます。若輩者でございますが、乾杯のご発声をさせていただきますが、先ほどご紹介いただきましたように、今度7月19日に(大本山随心院第四十四世門跡の)晋山式をさせていただくにあたりまして、(仏教クラブの)会長様に、(皆様の)代表で、ご参列いただくことになっております。
私は、平成10年に随心院に入ったんですけども、ちょっといろいろ・・・あの~、 知ったはる人は知ったはると思いますが・・・・。
いろんな事がございましてね、長い間、我々、苦労してきたんですけども、それで、なんとか、時間が経ちまして、ようやく落ち着いてまいりました。
そんな最中の1月にね、あのこれは、晋山式の時に話そうと思っていたんですけど、先に皆さんに話しておきます。
1月1日の修正会のお勤めをしていますとね、珠数が切れたんですよ。パラパラとね。
「今年はついてないなぁ・・・。」と思っていたら、そしたらその1日の日に、門跡やった私の父がベッドから滑り落ちましてね、腰の骨を折りまして緊急入院をしました。「やっぱり何かあるのかなぁ」と・・・。さらに、その父のお見舞いに、何度かその病院にお見舞いというか何か物持って行ったりするんですけども、その時2回、違反切符をきられまして、「わぁ~、これはやっぱり今年はついてないぞ!」とゆうことで、そんなことがありましてね、それで、このぉ~・・・、このままうちの父に門跡をやってもらおうと思っていましたら、なんと、ドクターストップがかかってしまいました。
今日のお話の太夫さんのように、うちの父もリハビリに精をだしてくれたらよかったんですが、なかなかそうも行きませんでね、まぁ、そんなことがいろいろありまして、他にもちょっといろいろあったんですが、私がやるということになりましてね、これが運が良かったのか悪かったのか・・・。皆さんのご宗派や業界では、どうなのかわかりませんが、私等の業界では、ちょっと私なんか若輩者。50,60、はなたれ小僧、まだ50代でございますが、一般社会でゆうたら定年前でございますが、お坊さんの世界でゆうたら、はなたれ小僧、若輩でございますが、浅学非才、何もできない者でございますけど、一生懸命務めさせていただきたいと思っております。
それでは、乾杯しましょう。
えぇ、花扇太夫さん、今日はありがとうございました。やっぱり、世の中、プラス思考が一番やなと思いました。私の話はマイナス思考でしたけども、やっぱり、プラス思考でやっていきたいと思っております。
それでは、本日ご参加の皆様方のご健勝とご多幸を祈念しまして、乾杯!

 

◇動画がありましたのでリンクしておきます。


文、編集、写真:藤野正観