開会の挨拶 大谷会長
皆さんこんばんは、
春彼岸会の例会にご出席下さいまして、誠にありがとうございます。
今月の11日は、東日本の大震災があった日でありますが、8年前のその日、やはりこのセンチュリーホテルにおりまして、例会前の運営委員会が(15時30分に)始まろうとしておりました。
私どもは、すでにロビーに居りましたが、(14時46分頃)非常に大きな揺れがありまして、ちょっといつもと違うなぁと運営委員会に出席の皆さんとしゃべっておりましたら、(委員会後の例会でお話していただく予定だった)ひろさちやさんから電話が入りまして、「今、静岡だけども、新幹線が止まって行けない。」ということで、「これは、東の方で何か大変なことになっているなぁ」と、(集まった委員の方々と口々に)心配していたのでありますが、あれからもう8年が過ぎようとしています。
『砂上の楼閣』という言葉がありますが、東京に住む私たちは、ほんとうにそんな砂上の環境の中で浮き沈みしながら生活しているんだなぁ・・・と考えさせられることが多くございます。
高速道路の下を走っておりますと、もし、今、大きな地震が起きてこの道路が堕ちてきて、うまく(一気に、一瞬に自分が)潰れるのかなぁ・・・と、思いつつ、期待をしているわけではありませんが、いつ何時、裏返しになるか分からない中で過ごしながら、今、こうして皆様と同じ空間に居り、お会いできるということに、そのご縁の深さを改めて噛みしめておるわけであります。
今日もまた、最後までお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。


会員スピーチ 

 知らないと云うことを 知らないと知った私‥・  関本諦皎 会員

皆さん、こんばんは、あのぉ・・・、私はこういったお席でお話させていただくのは、まぁ、初めての経験でございまして、お集りの皆様の前でお話させていただくのは、釈迦に説法ということなんだろうと思います。
今も会長さんがおっしゃっていたように、3月11日が、震災の日ということで・・・、改めて人生とは何だろうと、考えてみまして、なんで苦しいこと、悲しいことが次から次へとおこってくるのかなぁ・・・と。もちろん苦しい悲しいことばかりではないのですけども・・・。

今から24年ほど前の阪神大震災のあった頃、私がまだ若い青年僧の頃です。
その頃、一年に一回、若い僧と一緒に歳末助け合いとしての淨財を集めるために托鉢をしていたんですが、町を行きかう人々はその托鉢をする私たちに、ほとんどが無視、関心がありませんでした。
でも、その震災があった時から、その様子が違ってきました。
その震災をきっかけに、人々の助け合うという気持ちに変化が起きたように思います。
私たちの心のなかに、誰でも本来持っている優しい気持ちが宿っているんだということを、改めて知らされた時でもありました。

その頃、私が苦しさを覚えたことをもう一つ、「宗教」というものを考えさせるいろいろな事件(オーム事件)が起こったことです。
お檀家さんにお参りにいくその先で、「和尚さん、私はもう、宗教を信じることができない。」と・・・、「一方できれいなことばかり言いながら、あんなにひどいことができる。これって人間的にみて、間違った行動ではないのか?本来は、人の道を説くのが宗教の世界でしょう?」続けて、その方曰く、「倫理、道徳があったら、宗教なんていらないのじゃないですか?」そういわれた時、私、愕然としました。

今、私「保護司」を仰せつかってるんですが、ちょうど、そうして(僧として)いろいろ考えることがあった時、(私の身に)ある事件が起こったんですね。
それは、何かと言いますと、それは、路上生活をしている方に暴力を振るった少年を、しばらくの間、お預かりしたんです。
その頃のテレビやマスコミで報道される批判コメントは、「最近の倫理や道徳教育がなってない」ということやったんです。
それで、私は、ここで、僧侶の立場で、しっかり人の道を説かんといかんなと、その少年が来た時に、えんえん1時間余り、道徳と倫理のことばっかりしゃべっていたんですね。「こいう風に生きるんや!」という話ばっかりしていたら、その少年の目に見る見る涙が溢れてきて、「うるさい!黙れ!」と、言うんです。
「わかっとるわい!わかってるけど、でけへんのや!」「あんた、そんな偉そうなこと言うけども、路上生活してる人と一緒にご飯食べたりしゃべったりししたことあるのんか!」「人は、きれいごとばっかり言う!世間の奴らは皆、大ウソつきや!」と、そう言われたんです。

その時、私、愕然として、もしかしたら自分は、世間のことを何も分かってないのとちがうか?何も知らないのと違うか・・・。と自分に問いただし、それならということで、私は、近くの公園で寝泊まりしている路上生活をしている人に弁当とお茶を買って会いに行ったんです。
そしたら、その方、走って逃げようとされるんですね。「ちょっと待ってください、ちょっとだけお話を聞かせてください。」と、弁当、渡そうとしたんですね。そしたら、その方、怪訝な顔して「そんなことしてもろてもうれしいない!」と嫌がられたんです。
「ワシは、空き缶を拾い集めて、それを売って生活している。少しやがぁ収入がある。そんな生活をするのが気楽で好きなんや。」
その路上生活をしているおじさんの言葉を聞いて、私は、また二重のショックを受けたんです。
「自分は、こんなことも分かってないのか・・・。」いつも上からの目線で人を見ている自分に気づいたんです。
自分の良かれと思って行動したことは、ただの独りよがりの、自分の価値観だけで他人を見、間違った思いやりでその人の役に立ちたいと思っていた自分に気づいたんです。恥ずかしいと思ったんです。
そんな私の様子に気づかれたのか、そのおじさんは静かに言いました。
「何が寂しいかと言うと、ワシがのたれ死んでも誰も悲しんでくれないということやぁ・・・。ワシなんか、この世に必要とされていない人間なんやぁ・・・。」と、小さな声でこうおっしゃったんですね。
この方は、他人がご自分の近くに来る度に、逃げ隠れしておられるんですね。世の中は自分を必要としていないといった、深い悲しみの中におられたんです。

私は、しばらく考え、この方に「公園で寝泊まりするの、別に構わないやないですか!その代わり、その公園にお礼のつもりでご自分にできることをされたどうですか?・・・そうそう、例えば掃除でもされたらどうです?」と、こう言ったんです。

そしたら、その方、何かに気づいたのか、毎日毎日その公園を掃除し始めたんですね。
そしら、その方には何も関心を示さなかった公園で子供さんを遊ばせてるそのお母さん方が、その路上生活をされてる方にお子さんを預けて買い物に行ったり、その地域の方々と交流が始まったんです。そしてその路上生活者のおじさんは、その地域になくてはならない人になったんです。
自分が変わればすべて変わる。
そんなことがあって、その出来事の一部始終を、(その暴力を振るった)少年に話したんです。
よもや、自分が発した言葉で、保護司が、会いに行くとは思わなかった。ということです。
それから、私と、その少年との信頼関係が生まれてきたんです。
で、私は、(そういった道を外しかけた)少年たちに言うんです。「本当は、人って尊い存在やぞ。誰もが居なくてはならない尊い存在なんや、そうゆう尊い存在であることを知らずに、君たちは生かされているんやで。」

(「命」の解釈について)私はよく人に問いかけることがあるんです。「あなた、命はいくつあります?」と・・・。たいていの方は、「命は一つや」とお応えになります。
しかし、厳密に考えてみると、私の体は37兆余りの細胞で構成され、その一つが欠けても壊れても、この私の体は成り立ちません。
その細胞は、それぞれ命をもっているんですね。そして、それぞれが役割を担っている。私が健康で居られるには、そのすべての細胞にバランスよく)頑張ってもらわないと生きていけません。もし、仮にその一つが壊れたら、バランスが崩れたら、それが、がん細胞やったらどうなりますか?たった一つのがん細胞が、この私の大きな体の維持を邪魔することになり、挙句の果てには、命を奪われてしまうことになります。

また、仮にこの世界が大きな一つの命としますと、この世界は、それぞれの人の命が集合して一つの世界を維持してるということになります。
「一人が良く変われば、世界のすべてが良く変わって行くことになる。」という、これも一つの真理だと思うのであります。

私が僧侶であり保護司として、(こうして)いろいろと勉強させていただいてきたのでありますが、そんな私が、(今)何をお話ししたいかと言いますと、お釈迦様曰く「天上天下唯我独尊」(天にも地にも我一人、ただ、尊し)という、その意味の中には、「一人一人の存在は、なくてはならん」という「かけがえのない存在や!」という事をおっしゃっているのだということに気が付いたのです。
「自分はなくてはならん存在、かけがえのない存在である」そういった存在になろう、なりたいと目覚めるために、我々はこの人生を送っているのだと思うようになり、また、人から必要とされていないと思い込んでいる人たちにも、このことをお伝えしております。

それと、もう一つ、お釈迦様の教えの中で重要なことは、「内観」だと思います。自分の心の内を覗いていく・・・。
自分の外のことは分かっていても、自分の内のことを、つまり本当の自分の価値を分かってる人は少ないのではないかと思います。
人が、苦しいこと、悲しいことに直面された時に、(支援し、お助けするということは、)ただ、物を上げたら良いだけではなく、その(悲しみを背負っておられる)人にもっと必要なこと、何が必要なのか深く見つめ自分にできることをする。これが、仏教に携わる人がする(法施)ことではないかと気づかされたのです。
外に見えている(自分が見ている)のは、すべて自分である。自分の価値観で物を見ているに過ぎないことに気づいていただくのです。
皆さん、嫌なこと、苦しいこと、悲しいこと、あったら、ちょっと思い浮かべてください。
それは、いったい誰の「嫌なこと、苦しいこと、悲しいこと、ですか?」ということでございます。
自分の苦しみの原因は、すべて自分の外にあるのではなく、内、つまり自分の心の中にあるということ。自分がその苦しみの原因を作っていることに他ならないのです。
自分が、気づかなかった自分を自覚した時、自分の嫌なところ、バカなところ、未熟なところに気づいたら、その部分を愛してください。
愛することができたら、その次は許してください。受け入れてください。仏教では、これを懺悔(さんげ)と言いますね。
これができますと、その次は周りの景色が違って見えるんです。あきらかに違って見えるんですね。「(自分の周囲で起こっている災いは)本当は、私に自分自信を分かってもらおうと演じてくれているのではないかなぁ・・・」と、なんとなく気づかされるのです。
そのことに確信が持てますと、今までの苦しいこと、悲しいことが、すべて無くなっているんですね。これを智慧というんですね・・・。
こうして、結果的には、無執着な状態(くよくよしない心境)に変わっていくんです。このことは、お釈迦様の説かれる法で、これは、実は六波羅蜜の教えであります。大乗仏教で説く悟りの彼岸(ひがん)に至るための六つの修行徳目でもあります。

六波羅蜜
(それぞれ、ご用意された毛筆体でプリントされたA4紙を掲げて)
布施(ふせ)(五感から入ってくる世のすべての情報は、すべて私の為になっています。気づきの施しですよ。)
持戒(じかい)(悪い習慣に流されず、戒律を守り,自己反省しましょう。)
忍辱(にんにく)(完全なる忍耐、単純な意味でのがまんではなく、内観、静かに自分と向き合い自分に問いましょう。)
精進(しょうじん)(努力の実践、それは誰の苦しみか、苦しみの元をよく集中して考えること。)
禅定(ぜんじょう)(心作用の完全な統一、内と外を一体的に捉えること。内も外も自分であることをイメージする。)
智慧(ちえ)(真実の智慧を開現し,命そのものを把握する。気づき)

お釈迦さまは、非常に大切な教えをくださいました。 本来かけがえのない存在である命。それが大きな社会を作り上げ、そしてその一人一人が一翼を担っていると、それに気づくのが仏教者の本来の姿ではないかと、かように思うのであります。

今日は、仏教に精通した皆様の前でお話させていただいておりますが、「偉そうな話をしとるなぁ」と言われそうですが、私は、本当は、何も知らんのです。

保護司として最初に担当をさせていただいた方は「殺人をした方」です。その監察所の係官から、「最初やけどちょっと担当してみるか?一週間ぐらいで終わるから。」ということで引き受けさせてもろうたんですね。
その方とお会いする前に、その方の資料を読んでどう接したらよいのかいろいろ考えていました。
彼が来た時に、あらためて知ったのが前科20犯でした。出たり入ったりを繰り返したんですね。それはどういうことだったのか、彼に聞いたら、「その犯した殺人が(彼にとって)あまりにも大きなことで、罪の意識に苛まれ、刑期が済んでも、また犯罪を犯して刑務所に帰るといったことを繰り返してきたそうです。で、彼はその間で、初めて宗教者の保護司の所に来たということで、その私にこんな質問をしたのです。
「私が死んだらどうなります?」私は応えにつまりました。しばらく間をおいて、「私、地獄に堕ちますか?」とまたこう聞いてきます。
私は何と答えてあげたら彼を楽な気分にしてあげれるのかなぁ・・・と考えました。「う~ん、何とも言えんなぁ・・・。」と、それしか出ませんでした。また暫らくの沈黙が続いて・・・。私は、ふと、閃いてこう言ったんです。「我々も実は、あんたと同じやで、今、長いこと刑務所に入ったり出たりして苦しんでいるけども、普通に娑婆で生活している人も、普段、自分が犯している罪にまったく気が付かずにそれを繰り返してるんやで、仏さんの前で、天秤にかけたら、ほとんど差がないかもしれん。あんたは、罪を犯して自分を責めて過ごして来た、その気持ちは、あんたは気が付いてないけども、自分の罪を心から悔い、自分を救いたいのやろ?犯した罪に気が付いてるだけ、普通に生活してる人よりましかもしれん。」そう言うと彼ははっとして、少し安心した様子が見て取れました。その後、彼は刑務所に帰ることはことはなかったようです。
彼は、何に怯えていたのかといいますと、地獄に堕ちるのが怖かったんですね。彼の犯した罪がどんなことやったのかと言いますと、彼は、自分の店を持っつ料理人やったのですが、たまたま出かけていて、急用を思い出し帰ってくると、奥さんが従業員の男と浮気の間最中で、うすうす気づいていたのでしょうか、彼は、現場を見てカッと逆上して思わず近くにあった包丁で妻をメッタ刺し、相手にも重傷を負わすという、殺人事件だったようであります。
私は、その話を聞きながら、自分が彼の立場だったら、どうなるだろうと考えたのです・・・。
人は理性的な一面もあれば、彼のように逆上してしまうような出来事もにも出くわします。さまざまな条件がそろえば、誰でもそんなことが起きてしまうといった、そんな社会に生きています。
その時から、(保護司の)私のところへ来る人、来る人に聞いたんです。「あんたは、なぜここに来たのか分かってるか?」彼らのほとんどは、だいたい結果については、理解しているようでした。これは、悪いこと、これは良いこと・・・。皆さん知っているんです。
しかし、いろんな悪い条件が重なって身に降りかかると、人はなんとでもなります。そんな最悪の時に、自分を見つめ、なぜそうなったのか冷静に自分に向かい合い、先ほども申し上げましたように、内観、己の心の中を観ること、六波羅蜜を実践していただきたいと思います。
今日は、仏教者や仏教に精通しておられる皆さんの前で、あえて偉そうにお話させていただきましたが、ぜひとも一人でも多くの方に、この内観の方法を教えてあげて欲しいと思うのであります。本日は、ありがとうございました。

関本会員がこの日の為に著された冊子「佛・覚醒への道」。全員に配布された。


乾杯の発声   福永荘三会員
ありがとうございます。え~、先に、珠数屋の福永でございます。昔、この会の会長やった清水の森先生に「おまえ、どこの寺やったかいなぁ」と、こんな頭をしておりますので、言われたことがありまして「あの~、私、珠数屋です」と説明してもまた1年後に「あんた、どこの寺やったかいな?」と何度か聞かれたことがありまして、そんな笑い話があるのですが、・・・この会は、100人ぐらいで憩う会でございます。もう春も近づいています。もうすぐ暖かくなって桜が咲いて入学の季節になります。実は私、娘がお世話になった関係で、光華女子学園のいろんな役をしておりまして、卒業式やら入学式等学校行事には時間のある限り、寄せて頂くのですが、子供たちの笑顔をみると、ついつい自分の顔もにこやかにほころんでいるのがわかります。和顔愛語ということばがありますが、やはり笑顔で子供たちに話かけ向かい合いたいなぁと思う今日この頃でございます。
それでは、乾杯させていただきます。それでは、皆さんの益々のご発展とご健康を祈り、この会をよろしくお願いします。乾杯!!


 

皆勤賞

年度末の3月例会ですので、会長より今年度の全ての例会に出席された以下の方々全員に、皆勤賞が手渡されました。

大谷義博 会長
加藤廣隆 会員
北村弘彦 会員
正垣肇 会員
白坂ひろ子 会員
鈴木顕道 事務局次長
原田知成 会員
藤野正観 会員
山田直永 会員

 


 


編集後記:昨日の日曜日、ほぼ一日がかりで編集作業を終え、本日11日の朝、アップロードの作業をしています。
会長の挨拶にもありましたが、8年前のこの日、仏教クラブは、午後3時半より運営委員会、それに続いて例会ということでした。
実は、その頃も私は運営委員で、大きな揺れがあった時には、ホテルに向かう車の中でした。
何も知らずにホテルのロビーに入り、他の委員さんたちとお会いすると、ざわざわと何やら大きな揺れがあったとのお話。
この揺れのことには、ほとんど気にもせず、委員会が始まったのですが、そのうち、当時東京の江東区に住んでいた私の息子より、メールが入り、港の小型船が、いくつも陸に打ち上げられ、ひっくり返ってる画像を送ってきました。東京はえらいことになってる・・・!
スマホで確認すると、東日本が大きな地震でとんでもないことになっている生々しい情報が次から次に入ってきます。その後、例会がどう開催され終わったのか記憶はありませんが、あれから8年。その時刻があと3時間ぐらいでやってきます。
今も、仏教クラブの仕事をしていることに、この時間帯だからか、何か不思議な感覚が、よみがえって来ました。
関本会員のお話の書き起こしですが、お話に重複したり内容が前後したりして、文字にすると読み辛くなると思いましたので、お話の内容は大きく変えていませんが、お話の流れに沿って、読みやすく編集させていただきましたことをお断りしておきます。
お話にもありましたように、誰にでも、容赦なく襲いかかるかもしれない魔の時間、負の条件が重なり、気づいた時には殺人を犯してしまっていた・・・。深く悔い改め反省している人の深い悲しみを、どうやって取り除いてあげられるのか、また、明日死刑執行される死刑囚に対して、宗教に触れることで死刑囚の心の安定を図ったり、罪に対して悔悟(かいご)の念を持たせるための「教誨師(きょうかいし)」のお役など、宗教者の役割は、深い優しさと慈しみの心が、絶対に不可欠なんだよなぁ・・・。と、いろいろ考えてしまいました。

写真:正垣、藤野
文責:藤野正観