会長の開会の挨拶の前に、長年当クラブの事務局員としてご奉仕していただいていた故玉手友人会員が、この8月8日に脳幹出血で47歳の生涯を閉じられましたので、出席者全員で黙とうを捧げた。

 

8月(地蔵盆)例会(2019年8月23日)

会長挨拶
皆さん、こんばんは。 え~、先ほども鈴木次長よりご案内がありましたが、先般は、園会員が急逝され、そして今回は、玉手会員と続いての悲しみでございました。
改めて、生前の当クラブでのご奉仕、ご活躍に対して感謝の意を申し上げ、お悔やみを申し上げたいと思うことであります。
そんな中で、今回、ゲストスピーカーとして葛城トオル先生にご講義頂くということでして、昨今の若者にも妖怪についての興味が非常に強く、私の自坊で子供会の時に開催しております寺小屋でも、最近、妖怪のことで話題になっているそんな時(23日は、京都では地蔵盆)でもありますし、そういうご時世を汲み取って正垣会員にご紹介いただいたということであります。
ということで、これから楽しみに聞かせていただこう思っております。
私、実は先日から腰を痛めまして、2本の杖を持って歩いているのでありますが、そのうち杖が6本になりムカデのようになり、あいつもあれが最後の姿だったなぁと言われるのではないかと心配しております。その節はまたよろしくお願いいたします。(笑い) 本日はようこそお集まりいただきまして、ありがとうございます。 (拍手)


 

「 平安京設立から葬送のシステムの確立 」 
古物商四代目、妖怪伝道師 葛城 トオル氏 

葛城トオル氏 自己紹介

㈲かつらぎ代表・古物商四代目。
西院・妖怪堂店主。
堀川下立売の母方の祖父・渡辺弥平は着物柄の発案師であり、宮に仕える絵師の家系と伝わっております。
嵯峨美大から大手印刷会社デザイナーを経て、家業を継ぐが、ある日、自分が妖怪の子孫と気づき、妖怪伝道師となります。
独自の切り口で京都の魔界や妖怪伝承を解明、地獄図の語り部として日蓮宗の寺より僧籍をいただき一生修行と肝に銘じ活動中です。 僧籍名は玄幽と申します。

テレビ、ラジオ出演等の他、多くの寺やイベントで活躍する一方、イベントのプロデュースも手掛け、大人の寺小屋を主宰し、一般の方とお寺さんとの橋渡し役をしておりまして、4年間で約160か所で開催しております。

葛城の始祖というのが4世紀末に居た葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)という実在の人物で、天皇の命で朝鮮半島の弓月国から弓月君等127懸の民を連れ日本に渡来させますが、その中に秦氏も含まれていたといいます。分家なので家系図はありませんけども、その末裔で男系でずっと続いているのは、うちの家だけということになっております。

この襲津彦の娘の 磐之姫(いわのひめ)というのが、仁徳天皇の皇后になりまして、履中・反正・充恭天皇は、葛城の血が半分入っているということになります。
え~、ところがですね、平安時代になりまして、能とか謡曲、歌舞伎なんかで、土蜘蛛(妖怪)という演目がございますけども、葛城がこのモデルになります。
ようするに、葛城氏を「土蜘蛛族」というふうに呼んだという経緯がございます。これが、発覚しまして、なら、自分は妖怪の子孫か!という解釈になって、で、なんでこんな落差があったのかというところ(疑問)が、私の研究テーマとなったわけであります。

謡曲の中で「土蜘蛛」が、名乗るシーンがありまして、「汝知らずや 我昔 葛城山に年を経し 土蜘蛛の精魂なり」と口上を述べます。
このように葛城一族が、土蜘蛛と関係があるのかなと思って調べたら、古代の豪族・葛城氏を土蜘蛛族と呼んだ経緯は 葛城山という山を要塞にしていたり、穴を掘って仕掛けを作り、奇襲攻撃をしかけたりと、その戦い方が土蜘蛛のようであるとともに、その容姿も胴が短く手足が長い民族だったので歩く後ろ姿が蜘蛛を彷彿とさせたとのかな・・・、ということで、こういうことだったのかなということであります。

で、今日、お話させていただくのは、一つ目が「平安京の成り立ち」。二つ目が「第二期平安京」です。
平安京の成立から僅か70年、80年後に右京の方が衰退していくということですこれは、意外と皆さんご存知ない方が多いと思います。
で、それを核にして3番目にお話しする嵯峨野の「葬送システム」が出来上がります。
この葬送のシステムも、3番目にお話する地獄絵の通りに構築されているということが今日のお話の核になります。

 

平安京のなりたち

平安京

東京極大路

長安と洛陽

平安京の地図  緑の部分が、今の阪急電鉄京都線の西京極駅の辺り。この西京極という表現は地名ではなく平安京の一番西の通りの名前だったのです。「西京極大路」という名前です。字のごとく、京の西の極みの道 ということになります。ここから西は京都じゃないよ! というような意味合いですね。
左側の青い線が天神川になります。平安京が出来たころは、この川の名前は「御室川」と呼ばれています。御室から真っすぐ南下する川です.この川に沿って平安京が作られたということになっております。
西京極大路があれば東京極大路(今の寺町通)があります。 右側のYの字の川が、鴨川でして、現在の鴨川の3倍ぐらいの広さで、西側に広がった河原がそのまま「河原町」になったようです。その広い鴨川の河原の中に7本~8本の小川が流れていたということを想像していただければ良いかなと思います。
これが、大雨になったりすると、一本にまとまったり、蛇行したりしていたということでありまして、非常に危ない川だったんですけども・・・。

一番上が一条大路、南に細い通りが三本あって二条通りですね、また細い通りが3本あって三条通り、細い通りが3本あって四条通りということになります。
で、一番南側が、九条大路になります。このあたりには、東寺さんが現存しておりますので、場所的にはよくおわかりいだけると思います。
そんな中に平安京が建てられました。
南の入口として羅城門が築かれますが、この羅城門は低い塀ですけども、羅城に囲まれていたことから、羅城門と呼ばれたということです。
この「羅城門」という名は実は総称で、都の正面の門をすべて「羅城門」といったそうです。後にすべての門に名前が付くんですが、この門の扁額を弘法大師空海が書いたことから、そのままそれが名称として使われたということであります。
入口である朱雀通りを挟んで東側に東寺、西側に東寺と同規模の西寺を建立されることになります。左右対称にできているところが結構多く、生鮮食品を扱う市場とか、迎賓館とか、そんな施設が、東と西の両方に建てられたようであります。囚人を収監しておく獄舎も右獄、左獄として両側にあったようであります。

この京の都は、中国の長安に習って建てられていますので、右京の方を「長安」左京の方を「洛陽」というふうに名付け、794年に平安京として建てられます。
このあたりまでは、みなさんご存じかなと思います。

 

第二期平安京

長安が水害で没

しかし、それから70年~80年に満たない間に、この平安京の様子が様変わりしていきます。というのは、長安の方が水害で滅びます。洛陽だけが残りますが、川の整備をもう一回やり直します。都の南端が九条まであったのがショートカットされて五条大路までとなります。この五条大路とは現在の松原通りのことであります。
この形を私は、第二期平安京と呼んでおります。
変な形です。御所が飛び出ています。宴の松原というところに林があったそうですが、そこで、女性が鬼に襲われたというお話が残っておりますことから、御所の西側は治安が悪かったようであります。

風で倒壊した「羅生門」に、鬼が棲みつき、屍が転がったのです。「国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり・・・・」と数々の本やガイド・WEBに書かれてはいるのですが 実際はちょっと違うのです。
確かにこの近辺は、荒れるにまかせた地域だったようですが、政治自体が荒廃という大袈裟なことではなく、平安京の位置と地域エリアが当初とは違うものに変化していったということです。このことが理解できていないと 平安時代の事柄が、すんなりと当てはまっていかないのです。
それは 地名・お寺・伝説・物語など いろんな方面に及びます。正しく平安時代をイメージし理解するのには、これは欠かせない事柄なのです。

右京を「長安」左京を「洛陽」と名付けられた平安京は、右京が水害に遭い滅び、人が住まない地域になりましたが、この時、治水工事をおこなって強固になった川が堀川です。
堀川と鴨川にはさまれた一条から五条の間の洛陽が残り、これをもって「洛中と洛外」と区別するようになりましたが、平安時代からすでにこの概念があったようです。

都の人々は、この洛中エリアを「現世」、洛外を「あの世」と認識し、このことによってエリア外と、そこに掛かる橋に不思議な伝説や物語が生まれ、伝わることになります。
1200年続く京の都は、このエリアを中心に、お話が展開されるていくことになるわけですが、鬼や妖怪、そして源氏物語などもこのエリアの概念で描かれています。

堀川と鴨川、これは二本の「三途の川」だということで、この二本の川に掛かる橋の伝説が多く存在し、後で紹介していくことにします。

リアルな平安京のエリアというのを前にお伝えして、それであの世とこの世の区別がつきますが、このエリアの内は治安の良い場所で、外は「鬼が出てもおかしくない」ような場所だったのです。この場合の「」というのは盗賊をあらわしているので、外は治安の悪い場所ということであります。むろん外にも人は住んでいたのですが、大方の人は「名字」のない人でした。

内に住む人々にとってこのエリア内は生活の場「現世」であり、このエリアで人が亡くなるとエリア外に出るので「あの世」ということになるわけです。

夕顔と鉄輪の井戸

一条戻り橋で、浄蔵が、父の三善清行を生き返らせたエピソード(魔界「一条戻り橋」:近くに安部清明神社と白峰神社がある。祇園祭における山伏山は、浄蔵が怨霊調伏の修行のために山伏となって金峰山や大峰山に立て籠もった時の姿である。)
渡邊綱(わたなべのつな)と茨木童子のエピソード(「光源氏」のモデルとして知られる嵯峨源氏源融の子孫、源(箕田)宛(みなもとのあつる)の子。全国の渡辺氏の祖。源頼光に仕える「頼光四天王」の筆頭として知られる。)
◆安倍晴明の式神エピソード 式神を入れていたという石櫃の出現するが埋め戻す。(1995年の改修工事)  村雲町
◆源 融(みなもとのとおる)、河原院から、なにがしの院(五条(現在の松原通り)以南は魔界)のエピソード (光源氏のモデル、超セレブ 寛平年間(889年 – 898年)に京都六条の河原院(現在の渉成園)という邸宅を4町歩(東京ドームより少し小さい)の土地に造営し、陸奥国塩釜の風景を模して庭園をつくり、この地より、毎日20石の汐水を汲んで運び、塩を焼かせたという 海水に海の生物を飼う。今の塩竃町。海水を運ぶ人足が3000人いた。)
◆六条御息所の名前のエピソード 源氏物語 名前が六条ですから(当時の五条よりも南なので)これはもう魔界です。
◆夕顔の家の位置 松原(当時の五条)通より50mほど北にある(洛中)。
◆鉄輪の井戸の位置 松原(当時の五条)通より50mほど南にある(洛外)。謡曲:鉄輪の女

 

葬送のシステム

現世で人が住み、そこで亡くなると京都盆地の山野辺に遺体が送られる。これが「野辺送り」でございます。
洛中を中心として放射線状に野があり、そこに行く葬列の通るルートが設定されていきます。
その野に至るまでに「辻」があります。
その「辻」には「寺」が必ずあって死者と最後のお別れの場となります。この「辻」は あの世とこの世のわかれ道であり、精神と肉体が分離される場所でもあります。
亡者(魂)は閻魔様に裁判されて、死後の行き先が決められます。これが「六道輪廻」という考え方です。
肉体(屍)のほうは、辻から先に「野」があり、そこに葬られます。平安時代初期なら「鳥葬・風葬」ということになります。


東に五条大橋>六道の辻>鳥辺野(一般)・鳥戸野(皇族)
北に 一条戻り橋>五辻>蓮台野・紫野・北野・平野
北東に 柳の辻>高野・神楽岡
北西に 帷子ノ辻>化野(一般)・嵯峨野(皇族)・宇多野
西に  大枝沓掛、大原野

また葬送の地には 一般人と皇族との区別があり、皇族用の鳥戸野の阿弥陀ヶ峰には豊臣秀吉公の墓があり、徳川との駆け引きもあり、徳川は、後に秀吉の墓(石棺)を掘り起こし、一般と同じ丸い棺に屈葬して入れ直したというような、えぐいお話もあります。
鳥戸野の中心となっているのが今もそうですが、皇室ゆかりの御寺泉涌寺さんですね。鳥戸野は広く、最南は現在の明治天皇の御廟がある伏見城のあたりになるかなと考えています。
秀吉公が墓を建てる場合は、必ず偉人の墓の上に建て、そして、その人のパワーをそっくり頂戴するという考えがあったようですので、そのことから、桓武天皇陵が今のところ確定できていないので、このあたりがそうなのかなと私は思っております。ですので、秀吉→徳川→明治天皇となったのは、皇室が奪回されるような形でここにされたのかな、と推測するわけでございます。

それぞれに辻には「閻魔大王」が居るわけで、引接寺は千本閻魔堂と呼ばれているし、六道珍皇寺もあります。

 

地獄絵の具現化

熊野観心十界図

葛城氏筆十界図

奪衣婆

賽の河原

このあたりの辻の成立は熊野観心十界図(地獄絵)に基づいて町並みが構築されています。
鴨川の河川敷に中州がございまして、五条大橋は、この中州に向かって橋が架かっていました。安倍晴明が建立した鴨川五条の中洲「法城寺」は治水のために建てられましたが、そこには大黒堂「漆黒の地蔵菩薩」があり、賽の河原で石を積む子供の霊を成仏させるために、そこに祀られたようです。1594年の秀吉による陰陽師狩りに遭うまでは、この法城寺があったということで、その様子が、展開されていたので京都には地蔵盆が根付いたのではないかということです。

またそこから松原通りを東へ行くと松原大和大路の北東角に「姥ヶ堂」があり奪衣姥が祀られていましたが、現在、この奪衣姥は六波羅蜜寺の宝物館にあると思われます。
そこから先は以前、松原警察暑の敷地であったが、それ以前には愛宕念仏寺がありましたが、現在は、下村家に地蔵堂と石碑を残すのみであります。

六道の辻・西福寺は壇林皇后の御祈願所であります。
仏教を厚く信仰された壇林皇后は現世の姿を仮の姿とし、自分が亡くなったら朽ち果てていく様子を九枚の絵に描いて欲しいと遺言を残し、描かれたのが九相図であります。
この図は六道参りの時にのみ、公開されています。で、この死者に着せていた麻の白い着物ですが、これには裏地が無く、これを帷子(かたひら)の着物(古くは片枚(かたひら))といいます。
その帷子の着物の断片が風で舞い降りた場所が、「帷子(かたびら)の辻」とネーミングされたということです。

葛城氏の描いた十界図の説明・・・六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)+三途の川、賽の河原、奪衣婆、閻魔大王、の十の世界観で構成されています。
(※本来の十界(じっかい)は、天台宗の教義において、人間の心の全ての境地を十種に分類したもので、六道に声聞・縁覚・菩薩・仏の四つを付加したもの。)

六道の思想より、昔は六つのお堂(大黒堂、婆ヶ堂、地蔵堂(愛宕念仏寺)、西福寺、閻魔堂、篁堂(六道珍皇寺))があったのではないかと私は推測しています。葬送のシステムは、六つのお堂があったという説に基づいて生まれ、帷子の辻、五辻、柳の辻、六道の辻等どこの辻でも地獄絵の世界観で構築されていたということになります。
※六道の辻の北東には以前、閻魔堂がありましたが、現在は、六道珍皇寺に閻魔様が鎮座されておられます。

京都の夏に区切りをつける行事「五山送り火」

京都には「五山送り火」があるわけでございます。

地方では先祖の霊を送る儀式として、精霊流しや盆踊りがおこなわれますが、京都にはこの二つの行事は基本的には無く、代わりに家の表で火を焚く「門火」がありましたが、その代わりに一括して先祖の霊を送る儀式「五山送り火」になったと言われています。この「五山送り火」、もともとは五山で、途中で十山になり、諸事情で元の五山に戻ったのではないかと思っております。

この五山送り火は「大」「大」「船」「鳥居」「妙法」の順に本来は点火します。
私は、大は人形(ひとがた)で、ふたつあるので夫婦を表し、夫婦が船に乗って、鳥居を潜り、南無妙法蓮華経の一節「妙法」で天上界に送られるということではなかろうかと思えば面白いのではないかなと思っております。

ご清聴ありがとうございます。

 



乾杯の挨拶は、能登春雄会員
みなさん、こんばんは、思いもかけぬ「乾杯の音頭」をしろということで、腰が抜けるほどびっくりしております。
え~、乾杯と言いますのはですね、日本語では乾杯と言いますけども、世界各国いろんな言い方がございますね。
今、私はそれを勉強中でございます。知ってるのは五つぐらいございまして、カンペイ、チアーズ、ヘビオ?、マブハイ、そして、チンチンというのもあります。皆さま、どれがよろしゅうございますですか? 日本人ですから、今日は、乾杯させていただきます。
え~私は夜の街に出ますと乾杯をするは常でございます。
自分の為だけに乾杯してはいけません。ね、正垣さんね!(笑い) みんなの為に乾杯するんです。これからもそうさせていただきたいと思いますし、大谷会長ともできるだけ長く乾杯をさせて頂きたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
それでは、皆さんのご健康を祈念いたしまして、乾杯をさせていただきます。乾杯!!

 

【編集後記】
このページを、編集している私の本業は仏絵師ですので、六道図や地獄図を描いたことがあります。それでも、京の町(平安京)の構成と関連させて考えたことはありませんでした。
土蜘蛛族の子孫である葛城氏のお話は独創的な印象を受けますが大変興味深く、また図解入りで説得力もありました。
あらためて、平安京の前期と後期の範囲を知ることが出来ました。また誰かに知ったかぶりできるなと、私を含め、そう思った人は多かったのではと思っております。
ただ、十界図のご説明では、たぶん、平安京の町の構成を十界図と同一視されているからかもしれませんが、「六道」と三途の川、賽の河原、奪衣婆、閻魔大王の世界をプラスしたものと解説されました。これは、正しくは十界(じっかい)は、天台宗の教義においては、人間の「心」の全ての境地を十種に分類したもので、六道に四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏の四つ)を付加したもの。と、いうことですので、本来の十界図の説明を文中に画像と共に付加しておきました。差し出がましいとは思いましたが、お許しいただきたいと思います。
なお、当日、葛城氏にお願いをしておいたのですが、2日後、編集者の私の元に、当日に使用された画像や説話資料などをお送りいただきました。おかげさまできれいな資料写真をアップすることができ感謝しております。この場をお借りしてお礼を申し上げます。
書き起こしの後半は、お送りいただいたこの資料を元に、録音した当日のお話を付け足したりしていますので、お話の流れや口調リズムがちぐはぐになったかもしれません。これもお許しいただきます。
※私の撮った写真も会場が暗かったせいか、全部ぶれていました。老いぼれでも簡単に撮れるカメラを新しく買わないといけませんね・・・。

画像:葛城、正垣、藤野、Web
文・編集:藤野