2019年9月13日 於:センチュリーホテル

会長開会の挨拶
皆さんこんばんは、毎月こうして皆さんとお会いできるということは、大変有難いことと思います。
え~、それにしましても、とくに(私の自坊のある)浅草に近い千葉の方にはわずかな時間で行けるのでありますが、先日の大暴風雨が吹き荒れまして、いまだに20万近い家の停電が続いているようでございまして、残暑厳しい折、いろいろなところで大きな被害や死者も出ているようでございます。
そんな中、これを視野に置きながら、こうして、皆様と歓談できることをたいへんありがたく思うことでございます。
今日も、このひと時を有意義に心行くまでお楽しみいただければと思います。
今日は、ようこそご出席いただきましてありがとうございました。


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代理スピーチ  鈴木顕道会員(事務次長)

「済う」ということ

こんばんは、鈴木でございます。
私がここに立ちますとですね、三宝の集いの話とか、会費の値上げとか、そういう事務局がらみのお話ばかりでございますが、今日はねぇ、久しぶりにスピーチをさせていただくということになりました。

というのは、本当は、今日のスピーチ は、先日若くしてお亡くなりになった(長年、事務局員としてお世話になった)玉手君がする予定だったのです。
運営委員会でそういう風に話が決まりまして、ただ、彼のお父さんが、ご病気ということもあり彼が中心となり全国を飛び回ってましたから、もしかしたら名前を出していただいても、ご迷惑をかけるようなことになったら申し訳ないので、ということで(予定表の)名前は空欄にしてました。
それで、「何も(特別な急用が)なかったらここ(例会)でお話しをしてください。もし、 何かあったら私が代わりに喋るから。」と、そういう風に、玉手君と約束をしておりました。
忙しくて来れない、という状況だったらまだ良かったんですが、そうではない理由で、彼はもうここ(仏教クラブの例会)に来ることができなくなってしまいました。
今日は彼の供養という意味も込めまして・・・、 だから今日は、派手に紹介しないでくださいね。という風に事務局長さんにお願いしていたのですが、そういうことでお話をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

あの~、この席で私がこうやってお話をさせていただくのは、平成8年にゲストで呼んでいただきましてその時、私は手話を(ボランティアで)しておりますので、手話の話をさせていただきました。
ゲストで呼ばれて、お礼を頂いて、「そのままそれは微笑箱に入れるねんで!」と言われて、そのままお礼のお金を微笑箱に入れて、会長さん、その時の会長さんは仁和寺の吉田裕信会長さんでした。隣に座らせてもらったら、笑顔で「来月から来るな?」と言われて、 それでクラブに入れていただきました。(笑い)
それから、もう23年が経ちました。まだまだ若造だったんですが、もう60歳前になってしまいました。

え~、今日はね、お話のテーマは、「すくう」ということです。「すくう」は、救済の「済」という字です。
(「済」には、すくう=救済 の意味と、 わたす=済度の意味 がありますので、仏教僧として、この「済」を使用されるそうです。)

■お釈迦様のお話

「済う」ということでお話をさせていただきたいと思いますが、あのぉ・・・、仏教クラブですからまず、最初はお釈迦様のお話から。
ご承知のとおり、インドでお生まれになったお釈迦さま。
お生まれになっただけでは、まだ「お釈迦さま」あるいは『ブッダ』と呼ばれるような人ではありません。二十九歳で出家をなさり、修行に出られます。そして 三十五歳でお悟りをおひらきになり、「ブッダ」と呼ばれるようになられます。お釈迦さまが亡くなられたのは何歳かご存知ですか? 八十歳です。

三十五歳でお悟りをおひらきになり、亡くなられたのが八十歳ですから、「ブッダ」と呼ばれるようになって、そこに四十五年という時間があります。この四十五年を、お釈迦さまは、どのように生きてこられたんでしょうか。お経の本をせっせとお書きになったんでしょうか。違いますね。
では、インドのあちらこちらに、お寺を建てて回られたのか。これも違います。

では、四十五年間、お釈迦さまは いったい何をなさったのか。
一言で言うなら、教えを説き続ける旅です。八十歳でいよいよお亡くなりになる、そのギリギリまで、教えを説き続ける旅をなさいました。

四十五年の旅です。我が家に帰ることなく、です。
一口に四十五年と言いますが、それは大変な時間です。私たちも、四泊五日の旅行くらいなら行きますね。でも、四十五日間旅行をするという人は、あまりいないでしょう。それが四十五年です。 決して楽な旅ではありません。なにしろ2500年前のことですから、乗り物を使うわけでなく、ほとんどが歩いての旅です。

この、お釈迦さまの四十五年の旅を、いったい何が支えたんでしょうか。
なぜそんなに、自分の命が終わる直前まで、その旅が続けられたんでしょうか。

お釈迦さまに、もし給料が出ていて、その給料のために頑張っておられたんならば、
同じように四十五年間ひとつの仕事に打ち込む人はあります。しかし、お釈迦さまに給料はありません。誰かの強い命令を受けて旅をつづけられたのか。これもどうやら違うようです。

四十五年の長い長い布教の旅が続けられたのは、その行く先々で出会う、悩みを持つ人、悲しみを持つ人、苦しみをかかえた人を、ひとりでも多く済いたい、真実の教えによって、この世の真理を説くことによって、ひとりでも多くの人を済いたい、という、その願いが、四十五年間の旅を支えたと言っていいでしょう。

仏教は、慈悲の教えとも言います。
人を済いたいという想いというのは、ことばを変えて言うならば、慈悲ということです。
お釈迦さまが、ブッダとなられて、亡くなるまで、その「慈悲」によって支えられ、「ひとりでも多くの人を済いたい」という願いによって支えられて、長い長い旅をお続けになったことを想いながら、今日のお話を進めていきたいと思います。

 

■池田さんのエピソード

私のお寺の檀家に、池田さん(仮名)とおっしゃるお宅があります。
今から20年ほど前のお話です。
その池田さんのお家にお住まいだったのは、九十歳くらいの おじいちゃんがおひとり、
そして、そのおじいちゃんから言いますと、孫娘さん、そしてその旦那さんと、 三人で暮らしておられました。
おじいちゃんの息子さん夫婦が、以前は一緒にお暮らしでしたが、仕事や何かの事情で遠方にお出になりまして、連れあいを亡くされたおじいちゃんを、たった一人で住まわすわけにはいかないということでしょう、ほかに所帯をもっておられたそのお孫さん夫婦が、一緒にお住まいになることになりました。
お孫さんといいましても、そのご夫婦は40代半ばでしたが 子どもさんがありませんで、三人で暮らしておられたんです。

その池田さん一家がお住まいの「家」というのが、たいへん粗末な家でした。
いまどきよくこんな家に住んでいられるな・・と思いたくなるほど、台風でも来たら倒れるんじゃないだろうか、というような・・・
平屋の家で、家の中に入りますと、壁も白い壁ではなくて、白壁の下地に、藁を練りこんだ土壁がありますね。あれが家の中じゅう全部むき出しになっていて、ところどころ剥がれ落ちたようなところがありまして、竹で作った骨組みが見えるような所もあるんです。
床も、あちらこちら根太が落ちたようになっていて、踏みどころが悪いと横のタンスがグラッとなったりするんですね・・・。
上のほうを見上げますと、天井にも板が張ってありません。
平屋の屋根裏の薄暗いところから、蛍光灯がぶら下がっている、というような、そんな家なんです。ホントに、いまどきよくこんな家に暮らせるな・・・。私は、心の中で「おんぼろ屋敷」と呼んでいました。

あるとき、そのお宅からお寺に電話がありました。
若いご夫婦の旦那さまのほうから
「和尚さん、実は家の建て替えをしたいと思っておりまして、何月何日に家を取り壊そうと思うんですが、家財道具を運び出す中に、お仏壇があります。仏壇を動かすときにはお寺からきてもらって、ちゃんとお勤めをしてもらってから動かさなアカンぞ、とおじいちゃんが言いますから、和尚さん、何日の日、都合はどうでしょうか?」という電話でした。

当日、お家を訪ねると、家の周りには、家を解体するための大きな重機ですとか、ダンプカーやトラックのようなものも、たくさん来ていました。家の中に入りますと、家財道具の運び出しはもうすべて済んでいまして、お仏壇だけが残されていました。
さっそくお仏壇の前で、ご先祖の供養と、工事が無事に行きますように,というお勤めをいたしまして、後ろを振り返りますと
「和尚さん、こんなところで何ですが、お茶一杯どうぞ」
と勧められましたが、家財道具が全部運び出されていますから、茶たくの上に湯飲みが乗って出るようなお茶ではありませんで、見てみますと「お~い、お茶」と書いたお茶が置いてありました。
「皆さんお急ぎのようだから、この、「お~い、お茶」これは外でいただきましょう。」と言って、お茶を持って庭へ出ました。すると、それを待っていたかのように重機にエンジンがかかり、家の解体が始まりました。

申しあげるように、たいへん粗末な家です。
コンクリートが入っていたり、鉄筋が入っていたりというような、そんな家ではありませんから、見る見る間に家の姿が崩れ落ちていきました。どんな風に壊れていくのかな・・と、少し興味がありましたから、庭の隅のほうから、その様子を見守りました。
庭石に腰を下ろすようにして、その九十になろうというおじいちゃんが、やはりその様子をご覧になっておられました。
三十分もかかったでしょうか、家の大方の姿が崩れ落ちました。
そこまでを見届けまして、おじいちゃんに一声かけて、「じゃあ私はこれで失礼しますから」そう言ってお寺に帰りました。

数ヶ月が経ちまして、いよいよ新しい家が完成をして、またお寺にお電話をいただきました。

「和尚さん、実は家が完成いたしました。仏壇も新しいのに買い換えるか・・と、おじいちゃんが言いましたので、実は近所の仏壇屋さんに行って注文をしてきました。新しいお仏壇や、ご本尊様を入れると、魂入れのお経って言うのがあるんですよね?それをひとつやっていただきたいと思いまして、新築のお祝いの席に着いていただくかたがた、ちょっと都合をつけていただけませんか?」という、そんな申し入れでした。

決められた日、決められた時間に、お家を訪ねました。
オンボロ屋敷 と呼んでいたその家の、名残りは、もうどこにもありません。とっても立派なたたずまいになっていました。
中へ通していただくと、玄関がまた広々と取ってありまして、上が吹き抜けのようになっていて、明るくてとってもいい玄関なんです。もとの家も、(天井板がはずれて)吹き抜けにはなっておりましたけれども、
「だいぶ変わりましたね、おんなじ吹き抜けで」とは言えませんので、「いやあ いいですね吹き抜けは・・・」そう言いながら、上らせていただきました。

八畳くらいの部屋の二間つづき、間の仕切りのふすまを外して、長い部屋が作ってありました。そこにテーブルが繋げられまして、そこにはもうたくさんのご馳走が並んでおりました。
ご親戚や ご近所の方が、もう何人かお見えになっておりました。

さっそく、床の間の脇にあります お仏壇の前で、ご本尊様の魂入れのお勤め、そしてご先祖様の供養をいたしました。後ろを振り返りますと、「どうぞ和尚さん、こちらにお着きください」と勧めていただいたので、お祝いの席に着かせていただきました。

一番下座のほうに、若い旦那さんがお立ちになりまして集まった方々に、ご挨拶を始められました。
「近所の方々には、いろいろ迷惑をかけましたね。工事の間は、朝から音がうるさかったり、ダンプカーの泥や何かで道を汚したりして迷惑をかけましたが、こうして家を建てることができました。ありがとうございました」と言って、丁寧にお礼をおっしゃいました。

次に親戚の方へです。
「親類の人にも、いろいろ心配をかけましたね。家財道具を預かってもらったり、お風呂に入れてもらったり、おかげでこうして、どうにか家を建てることができました。また、どうぞゆっくり、度は泊りがけででも遊びに来てください。今日は忙しいところ、ありがとうございました」と丁寧に挨拶をなさったんです。

顔ぶれを見ますと、ご近所の方々と親戚の方ばかりですから、これは流れから行くと、次は乾杯と言うことになるんだろうな・・と思いまして、「アサヒビール」と書いてあるコップをこうして上向きにして待っていました。
ところが、すぐに乾杯ではありませんで、もうひとつだけ、その旦那さんが、ことばを述べられました。それは、私のとなりのとなりに座っておられた、義理のおじいちゃんに対しての言葉でした。

「おじいちゃん、おじいちゃんちょっとそこに立ってくれへんかな」
何がこれから始まるのかな・・・という感じで、集まった方みんなが、その場を見守りました。そして、その旦那さんが、おじいちゃんに言葉をかけられました。
何とおっしゃったと、想像されますか?

「おじいちゃん、今度のおじいちゃんの部屋はね、日当たりも良いし、眺めの良いほうに窓も取ったし、エアコンも付いてるから、この部屋でゆっくり休んで、これからも長生きしてね、おじいちゃん」
とは言わなかったんですね。

でも、そんな予感がしました。
きっとこんなことを、おしゃるんだろうな、そんな予感がしたんです。
きっと皆さん方も、お聞きになりながら「ああ、よくあるようなそんな話やな」と思われたと思うんです。そのお宅に集まった、大方の人も、きっとそう思ったに違いないんです。

しかし、旦那さんの口から出た言葉は、少し違っていました。
こんな言葉でした。

「おじいちゃん、おじいちゃんが若い時分に骨折って建てた家をなあ、新しい家に建て替えるっていうて、おじいちゃんの大事な家を引き倒して壊したのは、この俺や。
おじいちゃん、自分の家が倒れていくときは、辛かったやろなあ、すまんことしたな、おじいちゃん。堪忍してな。」
と言って、畳に頭を付けるようにして、お詫びの言葉を仰ったんです。

おじいさんも、驚きと照れくささがあったんでしょう。
「こら、何を言うてんねん。そんなことはええから・・」
と、手でさえぎるようにして、すぐにお座りになりましたが、もういちど言葉を継ぐようにして、

「いや、おじいちゃんの大事な家やったもんな。ほんまにスマン事したな、辛かったな、堪忍してな。」と言って、また深々と頭を下げて、お詫びの言葉を仰ったんです。

確かに、その家は、もう建て替えの時期が来ていました。そのことは、おじいさんも承知なんです。しかし、その言葉を聞いてみてわかりました。

おじいちゃんが若い時分に骨折って建てた家、当時 九十になろうかというおじいさんが若いころ、いくつくらいだろうか・・仮に三十歳くらいだったとして、戦争中か、戦争が終わったかというような、あまり豊かではない時代、若さゆえに、蓄えも少なかったかもしれません。しかし、何らかの事情で家を建てなければならない。そのとき精一杯建てた家が、その家でした。いつかは壁も白く塗りたいし、天井にも板を張りたいとお思いだったかもしれません。

建て替えの時期が来ている本当に粗末な家ではありましたが、考えてみれば、おじいさんにとっては、自分が若いころに建てた家、そこで子育てをし、いろんな想いがいっぱい詰まった、おじいさんの生きた証し、そのものでありました。
その家が壊れていくとき、姿を無くしていくときに、仕方がないと分かってはいても、やはり心の中のどこかで
ああ、ひとつの時代が終わっていくような、自分の人生の終わりが、少し見えてくるような、そんな想いになられたに違いないと思いました。

私のとなりで、庭石に腰をおろすようにして、家が壊れていく様をご覧になっておられました。
その姿に、私は、おじいさんのそんな想いを、ちっとも感じることはできませんでしたが、

家を建て替えたその旦那さんは、おじいさんの横顔にでしょうか、うしろ姿にでしょうか、
その、なんとも言えない 寂しいような、もの悲しいような、その気持ちを、お感じになられたんだろうと思います。
だからこそ、「スマンかったな、おじいちゃん。大事な家をな・・堪忍してな」
という言葉が出たんだと思います。

おじいさんの、その、寂しいような、なんとも言えないやるせないような想いを、ほかの何かで、済うことができたでしょうか。
どんなに一番いい部屋をあてがわれたって、その気持ちと交換にはできないですね。
お小遣いをもらったって、その寂しいような気持ちと交換はできないんです。
「おじいちゃんの大事な家やったもんな。ほんまにスマン事したな、辛かったな、堪忍してな。」
この言葉だったからこそ、わたしは、そのおじいさんの、なんとも言えない寂しいような気持ちを済い取ることができたんだ、と思いました。

私たちが、人を済うとか、助ける、というと、募金箱をまわしてお金を集めないとできなかったり、特別な力がないとできないように、錯覚をしがちですけれども、
「言葉でしか済えない」
という場面があるんだということを 見せられた思いがしました。

■堀君とのエピソード

私は、中学の頃からお坊さんになるのがイヤで、親の猛反対を受けながらも、仏教系の大学には進学しませんでした。
一般の大学を卒業したあと、サラリーマンをしていました。
堀川鞍馬口をちょっと上がったところにある
淡交社という会社に就職して、1年後に東京支社への転勤を命じられて、しばらく東京に住んでいました。東京の下町のほうで、アパートに一人暮らしをしていました。

その同じアパートに、「堀」という学生が住んでいました。
彼は、大学の三回生でした。

今どきのワンルームマンションではなくて、トイレと台所は共同、お風呂は銭湯、そんな時代でしたから、入り口や、階段や廊下で、一日に2度も3度も顔を合わせることがありました。
最初のうちは、通りすがりに挨拶を交わす程度ですね。でもそれが、何度も顔を合わせるようになりますと、やがて、立ち話をするようになりました。

ある時、彼が大阪出身だということがわかって、同じ関西人ということで、急にリラックスして親しくなっていきました。やがて、お互いの部屋を訪ね合うようにもなりました。

廊下ですれ違っているときには、気が付きませんでした。
ところが、初めて彼の部屋を訪ねたときに、「鈴木さん、コーヒーでも入れましょうか?」彼が台所のほうに立って行って、お湯を沸かしたり、カップの準備をしたりするんですが、その様子を見ていますと、どうも、ぎこちないというか・・片方の手を、ポケットにつっこんだまま、
右手だけでやるもんですから、なんとも不精なようにも見えましたし、ぎこちないんです。
おかしいな・・と思いながら、しばらくその様子を見ていますと、どうも、片腕が使えないようでした。
「堀くん、その手どうしたん? 怪我?」こんなふうに聞きますと、彼は、自分で自分の手をさすりながら、「ああ、この手ね、高校2年のときの交通事故で・・・自分の手なんですけど、もう神経もなにも死んでしまって、自分の力では動かせないんです。こうしてぶら下がってるだけ・・・」
袖をめくって見せてくれましたが、骨と皮だけ、というのは、まさしくこのことだと思いました。指も曲がったままの真っ白な手が、ぶらんと ぶら下がっているだけ。
その手をブラブラさせるのがおかしいからでしょう、いつもポケットに入れて、右手だけで用事をしている。ですから、廊下ですれ違うときには、ただポケットに手を入れているだけ、と思いますから、立ち話をしていても、気づきませんでした。

「そりゃ大変やね、同じアパートに住んでて、遠慮することはないから、なんか困ったことや、力のいることがあったら言うてや。いつでも手伝うで。」こう言いました。
「ありがとうございます。そのときは頼みますからね。」と、彼は言いましたが、それから2年間、同じアパートに暮らしましたが、彼は、ほとんど人を頼りませんでした。もちろん、私のところにも、ほとんど来ませんでした。ただ、1年に2度ほどあったでしょうか、同じことを頼みに来ることがありました。
それは何かと言いますと、ふだん彼が履いている、運動靴、これを洗って、乾いたあとに、紐をずーっと通して、自分の足に合うように、紐を結んでほしい。というのが、彼の唯一の頼みでした。もちろん、自分で、片腕でやろうと思えば出来ないことはない、しかし、最後に結ぶときには、その靴を、口にくわえるようにして結ばないと無理ですね、片手ですから。でも、そういう結び方だと履くときにキツ過ぎたり、、走ったりするときに脱げてしまったり、紐が解けてしまったりする。そうすると、出かけた先で 人前で靴を口にくわえるようにして結ばななければならないんです。
だから、自分の足にピッタリ合って、履きやすくて、そして、走ったりしても、脱げたり紐が解けたりしないように、しっかりと結んで欲しい、というのが、彼の頼みでした。その他のことは、いっさい頼ってきませんでした。

2年間、とても仲良く付き合わせていただいて、そして、いよいよお別れの時がやってきました。
彼は卒業して大阪に戻り、私は、京都本社へ戻ることになりました。
同じアパートに住んでいて仲良くしていた、もう一人の学生がいまして、彼は九州の出身だったものですから、旅行がてら、その彼を送っていこう、という話になりました。
お互いの荷物をすべてまとめて、アパートを引き払って、3人で九州へ行きました。
2月ももう終わりに近い頃でした、
短い旅行を終えて、博多からの帰り道、もうお別れが近づいています。
初めのうちは、2年間の思い出話に花が咲きました。広島を過ぎたあたりからは、お互いの将来の話です。彼は、障害を持っていますから、何度も仕事を変わるわけにはいかない、納得して、一生続けられる仕事に就かない、と話していました。
そんなやりとりをしながら、新幹線は進みます。岡山をすぎて、姫路を過ぎて・・・新神戸の駅に、新幹線が入りました。神戸を出ますと、次は新大阪です。彼はそこで、新幹線を降ります。私は、次の京都まで。

お別れをする、ひとつ手前の駅に新幹線が入ったとき、彼が、私に、こんなふうに切り出しました。
「僕は、学生時代、鈴木さんと同じアパートに暮らせて、よかったと思ってます。」と、言いました。私も同感ですから、「そうやな、よかったな、たまたま同じ関西人同士で話も合うしね。楽しかったよな。」と、こう言いますと、
「いや・・そうじゃないんですよね・・」
と、少し言いにくそうに、照れくさそうにしていましたが、
やがて、改めて、
「僕は、学生時代、鈴木さんと同じアパートに暮らせて、学生時代が、済われた想いがしました。」
と、彼は私に対して、「済う」という言葉を使いました。
それは、私が何かの手助けをしたことだろうと、そんなふうに感じまして、
「いやいや、俺はなんの手助けもできなかったよ、何でもいいから、困ったら言うてや、って言うたけど、おまえ、全部自分ひとりでやったやん。なんの手助けも、できひんかったで。」と言いましたら、
「いや、違うんです。そうじゃないんです。」
と、彼は言いました。
「鈴木さん、いつもね、僕のことを気にしていたでしょ?いつも、気にかけていてくれましたよね。だから、いよいよ困ったときには、あの人に頼めばやってくれる。だから、自分でやろうという気持ちが、自分の中に湧いてきたんです。高校2年のときに片腕の機能を失い、東京での一人暮らしは、家族もそうだけれども、自分自身も、不安がありました。
最初の2年間は、なんだか自信のないままに、毎日毎日が過ぎていくし、学校に行っても、なんだか張り合いがなくて、このまま4年生まで、学校を続けられるかな・・と、本当にそう思っていたんです。」と、彼が言いました。

「でも、鈴木さんが同じアパートに来て、何でもいいから、困ったら言うてや、手伝うしな。そう言ってくれて、しかも、いつも気にしてくれているような目で見ていてくれた。だから、僕は頑張れたんです。」と、彼は言いました。
それでも私は、自分が堀君を助けたり、済ったりした、そんな気持ちはありませんでしたから、
「そうかな・・お互い様やと思うけどな・・」

そんなやりとりをしている間に、新幹線は、新大阪の駅に入りました。彼は、黄色い色の、とても目立つ色のジャンパーを羽織りました。肩に、大きなリュックのような荷物を背負いました。
自分の座席を立って「じゃあ、鈴木さん、またね。元気でお互い頑張りましょうね。」と、手を差し出しましたから、私も手を出して、握手をして、「じゃあな、頑張ろうな。」
前のほうの出口から、彼は、ホームへ降りていきました。
夕方、6時くらいだったでしょうか。2月のことですから、あたりは真っ暗です。もちろん、蛍光灯の明かりはホームに点いていますが、通勤やなにかの人もあって、新大阪のホームは、とても混雑して、ごった返していました。
しかし、彼の黄色いジャンパーは、とっても目立つ色でしたので、これだけ人が多くても、人ごみの中に彼を見つけて「バイバイ」と手を振ろうと思って、窓側に席を替えまして、新幹線が動き出すのを待ちました。

やがて、新幹線が動き始めました。
黄色いジャンパーを着たその男を私はすぐに見つけることができました。
その黄色いジャンパーを着た堀くんは、肩に背負っていた荷物を、ホームの上に降ろして、たくさんの人が行きかう、新大阪のホームに両膝をついて、右手をついて、まるで土下座をするような形で、私の窓のほうに向かって、何度も何度も、頭を下げているんです。
口が「ありがとうございました」と動くのがわかります。窓が開かないから、言葉は聞こえませんけれども、一生懸命 頭を下げながら、2度、3度、「ありがとうございました」と。
私は「バイバイ」と挙げかけた手をどうしていいのか、本当に困りました。

私がどんなに世話になった人、どんなに助けてくれた人に対しても、あの新大阪の駅のホームのように、たくさんの人のいる前で、土下座までして「ありがとう」とは言えないと思いました。今でも、きっと言えないでしょう。でも、彼は、私にそうしてくれたんです。
30年あまりが経ち、いま改めて思いますが、あのときの彼の「済われた」という想いは、本当に大きかったんだな・・
私は、何かをしてあげた、という意識は今でもありませんが、「いつも僕のことを、気にかけていてくれましたよね。何かあったら遠慮せんと言うてくれ。って言いましたよね。」それで頑張れた、と言うんです。

気にかけてあげる、気にしてあげる そして、その気持ちを言葉にする
これだけでも、人を支え、済うことができる、ということです。

お釈迦さまが、三十五歳でお悟りをお開きになって、八十歳で亡くなるまでの、四十五年間、ただひたすらに、人々を済うための旅をされたと申しました。
食べ物を配って済ったんじゃないですね。
お金を配ってまわって済ったんじゃないですね。

言葉によって、お釈迦さまは済われました。

みなさんが、子供さんや、小さいお孫さんに「仏教ってなに? 仏さまの教えってなに?」
と尋ねられたら、どうお答えになりますか?
私は思うんです、仏教ってなに? と尋ねられたら「人を救いたい、人を助けたいと思う心、そして、それを実行すること」これが仏教ではないですか?
だって、お釈迦さまが、そうして生きてこられたんだから、間違いないと思うんです。

般若心経を、全て暗記して読める、これも大事かもしれません。ご先祖さまのために大きなお墓を建ててお祀りをする。これも大切なことかもしれません。
でも、いくら般若心経が空で読めても、難しい仏教の論理を勉強したとしても、大きなお墓を建てたり、たくさんの寄付ができたりしても、「人を救いたい、助けたい」という思いが、どこにもなかったら、それはお釈迦さまの思いとは違うと思います。
だから、「仏教ってなに?」と尋ねられたら「人を救いたい、助けたいと願う心、そしてそれを実行すること、それが仏教ですよ。」そんなふうに言っていただいて結構だと思うんです。

 

■マザーテレサのエピソード

マザー・テレサという方を、ご存知だと思います。
もうすでに、お亡くなりになっていますが、あ、名前は知っている、およそこんな様な人だな、と想像はつかれると思いますが、
ヨーロッパのお生まれですが、早くから教会に仕えられました。そして、インドに移り住まれます。そこで、とても苦しい生活を強いられている人たち、貧しい人たちがいることを知りまして、
「この人たちを済うために、私は生涯を捧げる」と言って、最期まで、インドにお住まいになられました。ノーベル平和賞も、受賞なさいました。
このマザー・テレサが、赤十字の招きで日本にお見えになった時に、こんなエピソードがあるそうです。

飛行機を降りて、空港を歩いてくるマザー・テレサは、ほとんど裸足に近いような、サンダルを履いて降りてきます。ホテルの記者会見場に現れたマザー・テレサも、ほとんど もう裸足に近いような、そういう履物で現れます。
一通りの記者会見が済んだ後に、記者の中のひとりが、「あなたは、いつも そうしてお歩きですけれども、日本の道路には、金属の破片や ガラスのかけら などが落ちていて、足を怪我なさると大変ですから、どうか、外にお出になるときには、運動靴のようなものを履いて、お出かけください。」というふうに、声をかけました。

自分を気遣ってくれているということが、マザー・テレサには分かりますから、最初にちゃんと「ありがとう」と、お答えになります。でも、そのあとに続けて、こうおっしゃるんです。
「いま私が、インドで済おうとしている人たちは、貧しくて、靴の履けない人たちなんです。その人たちを済おうとするときに、私が靴を履いたら、済えなくなる。」とおっしゃる。

インドと日本は、遠く離れているからいいじゃないですか、と、言いたくなりますが、マザー・テレサの心は、そうではないんですね。
向こうからこっちが見えていないから、今はいいだろう、ではないんです。
私が靴の履けない人を済うためには、私が靴を履いてしまったら済えなくなる。それは、私の心が変わってしまうからです。
どんなに距離を隔てていても、どんなに時間的な隔たりがあっても、想いが同じだからこそ、通じるものがある。立場が同じだからこそ、通じるものがあるんです。

いま私たちは、お釈迦さまから二千五百年の時を隔てています。インドと日本という、長~い距離も隔てていますが、
お釈迦さまが、済おうとなさったこと、私たちが今、済おうという気持ちを起こすということ、これは、まさしく距離と時間とを超えて、相通じるものがあると思うんです。
「済う」ということは、そういうことではないかな、と私は思うんです。

決して難しいことではなく、「済う」ということを、キーワードに考えていくと、私たちの、やるべきこと、進むべき道が、見えてくると思うんです。

今日は最初に申し上げましたように先日(若くして)亡くなった、玉手君との約束を果たす供養のために、お話をさせていただくという気持ちで、ここに立たせていただきました。
拙いお話ではありましたが、最後までご清聴頂きまして、ありがとう ございます。
仏教クラブのこと、これからもよろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。

 


藤田浩哉会員(観音寺住職・泉涌寺宗務総長)の乾杯発声

鈴木事務次長の淡々としたご講演というのでしょうか、ご法話ですね。
ほんとうに、胸に染み入るように入ってきました。
素晴らしい、お話でございました。

今日は、ちょうど、中秋名月ということでございまして、泉涌寺は、東山に面しておりますので、皆さん、ご存知かもしれませんが、山門がございまして、その山門を潜って、下の方を見下ろすようにお堂が建ってございます。
そして、その背後が東山の山々。その上に、今日は、おそらく大変きれいであろう月が輝くことになっております。
この、まん丸の清らかな月のように、どうぞ、皆様方、今日の鈴木次長さんのお話にもありました「慈悲の心」を持って、これからも皆さんと共に精進して参りたいと思っております。それが、仏教クラブの神髄だと思います。
それでは、皆様方の益々のご隆昌を祈念しまして、乾杯!!


 

編集後記:
「済う(救う)」・・・自分が、他人を救えるなどと考えてみた事もありませんでした。
私にできることといえば、募金や、品を寄付することしか頭に思い浮かびませんでした。
お話をお聞きして、なるほど、ちょっとした思いやりの言葉、ちょっとした笑顔を向けるだけで、誰かの心が和む、救われる。くじけそうになった人を支えることができる。
確かに、言えている。
私も誰かに優しい言葉や笑顔を貰うだけでハッピーな気分になります。
豊かになったこの時代、お金や物よりも、この温かい気持ちの形としての「優しい思いやりのある言葉」、そして、「笑顔」の重要性を忘れていたようです。
良い気づきをいただけました。清々しいお話でした。ありがとうございました。

写真・文・編集:藤野正観
スピーチ書き起こし文の校正:鈴木顕道