11月8日午後12時15分にセンチュリーホテルに集合。30分にホテルをバスで出発して一路、奈良県桜井市三輪の平等寺へ。JR宇治駅でお一人を乗せ、会長、事務局長、事務次長を含めた合計27人の参加。
休憩なしのノンストップで目的地の平等寺へ。
14時、桜井市三輪にある大神神社の鳥居前に到着。徒歩にて700mの境内を抜け、目的の平等寺へ。
大神神社の本殿を尻目にして平等寺へ、待っていただいていたのは、墨衣に小さな茶色の袈裟を着けられた小柄のご住職お一人。満面の笑顔で本堂へお招きいただいた。
さっそくご自身の左手首の腕時計を見ながら、添乗員から聞いておられた帰りの時間(大神神社を参拝し出発する時間4時20分)を平等寺を出発する時間と勘違いされ、法話途中、誰も和尚のお話を止めることはなく、結局、1時間40分の長いご法話を頂戴することになった。
予定より20分ほど遅れて寺を出ることとなり、急いでバスまで徒歩。
辺りはすでに薄暗く、夕日が我々と山々を照らし黄金色に輝いていました。
本殿に差し掛かると、神職や巫女さんも帰り支度をしています。急ぎ足で本殿前に歩み寄り、各々が大急ぎで大神様に詣で、そのまま駆け足でバスに乗り込み、日の落ちた奈良の国道を40分ほど京都方面へ、途中の大和郡山の「「和膳たまゆら」で夕食を頂き、センチュリーホテルまで帰りは1時間。
20時到着の予定が、丸子和尚の20分オーバされた分の時間を、しっかり遅れて到着、解散となりました。
結局、寺の散策も無し、『古事記』や『日本書紀』の神話に記されている我が国最古の神社、三輪明神 大神神社の広大な境内も散策できませんでしたが、少しだけ、唯一その境内を抜け、平等寺までの700mの往復の徒歩が、その神々しくて清浄な空気に触れたひと時でした。

輪明神 大神神社 http://oomiwa.or.jp/

 

丸子孝法老師のご法話

三輪山・平等寺住職
丸子孝法(まるこ こうほう)
講演依頼は、https://www.sbrain.co.jp/keyperson/K-1510.htm まで。

丸子孝法老子による1時間40分にわたる、ご法話は、まずは、寺の歴史、規模、由緒、廃仏毀釈によって大伽藍を喪失、安置されていた仏たちも転々と行先を変えることになったが、1977(昭和52)年、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。丸子孝法和尚の16年間の托鉢によって現在は伽藍も復元されているそうです。
明治の廃仏毀釈とはいったい何だったのか、被害を被った寺ならではの憤りを感じているとお話を始められた。

 

この平等寺は、西暦581年に聖徳太子が賦徒を平定するため、三輪明神に祈願して賦徒平定後十一面観音を彫んで寺を建立し大三輪寺と称したのにはじまる。
鎌倉時代に僧慶円上人(三輪上人)を迎え、平等寺と改称された。
明治の廃仏毀釈令により一時崩壊したが、昭和52年3月に復興した。

1868(明治元)年、神仏分離の太政官布告が出される。
これにより、1870(明治3)年には、平等寺は大御輪寺、浄願寺と共に三輪神社の神官が管理するにいたり、堂舎は破壊され、廃止となる。
境内の広さは南北328メートル、東西490メートルもあって、本堂は六間四面の瓦葺、本尊は聖徳太子御自作と伝える十一面観音秘仏であった。
その他維摩堂・御影堂・上人堂・鐘楼などいろいろな建物があり、大智院・中之坊・常楽院・多楽院・吉祥院など九ヵ坊の僧房があった。

明治元年神仏分離のとき、僧侶たちは還俗し、お寺はつぎつぎになくなって、現在はただその石垣ばかりが残っている。」
「現在はその伽藍は存在せず、わずかに塔中の石垣のみが遺跡として存在する」と記されたが、実際には廃仏毀釈の直後、小西家より現境内地の寄進を受け、廃仏毀釈前の平等寺住職・覚信和尚と町内有志18名が塔頭の一部を境内に移し、本尊十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石等を守り、曹洞宗慶田寺住職・梁天和尚が翠松庵の寺号を移し曹洞宗に改宗し法灯を護持した。

1977(昭和52)年、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。

丸子孝法和尚自らの16年間の托鉢による資金集めと、自らの設計、肉体労働、自らの仏画制作、堂内荘厳作業によって現在は、伽藍も見事に復元され、今も自らの講演活動による資金集めによって寺院の再興に奮闘し続けられている。

平等寺 http://byodoji.org

少年の頃、重いリウマチに犯され長い間苦しんでいた。その頃ラジオで中村久子の話を聞く。
「手はなくも 足はなくとも み仏の 袖にくるまる 身は安きかな」心の母として今でも拝んで居る。このラジオで聞いたお話に勇気を貰った。
中村久子のこと https://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/35939265.html

 

編集をしている、私自身が仏画制作を生業にしているので、お話の中で特に印象に残ったのが、絵を描いた経験のない素人の和尚がご自身で釈尊の成道図を描かれたことや今も描いておられる格天井の板絵に感心させられた。

以下に、和尚のお話にもあった、自らが設計され再建された本堂のりっぱなお廚子の中にお祀りしてある「成道の釈迦」図の制作にあたってのエピソードがネットにありましたので貼っておきます。

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「お釈迦さまはどんなお姿だったのだろうか。会えるものなら会ってみたい」と願っていた私は、28歳の時、恩師からお釈迦さまの似顔絵を頂いたのです。
それは、大英博物館に秘蔵されている生前中に写生されたお顔の絵の複写でした。
お釈迦さまがお悟りをひらかれ、その6年後はじめて、お生まれになった釈迦国を訪ねられたとき、父である王が、画家に命じて写生させたという絵です。そのお顔は、まことに聖者そのものでした。
その絵を頂いたとき、私の寺では、坐禅堂の建設の最中でした。ぜひ坐禅堂にお祀りしたいと、近くの著名な絵の先生に、その絵を元にお釈迦さまが成道された時の絵を描いて頂くことを考えました。
しかし、さまざまな理由でその先生にお願いすることができなくなり、一念発起し私は画材道具一式と百号キャンパスを買い求め、生まれて初めて油絵に挑戦することになったのです。
お釈迦さまをお慕いしながらの50日。何とか畳1枚半の絵が完成し、私はその絵を「成道の釈迦」と名付けました。・・・・・・。
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この図のように、奥様に衣を着てもらい禅定印を結び結跏趺坐のお姿でお座りいただいたそうです。衣文の皴の様子を写生しながら100号のキャンバスにはじめて油絵を描かれたそうです。デッサンの勉強もされていない和尚なのに、絵具の使い方は慣れておられないのは仕方がないとしても、見事に描かれていました。
熱い「思いがあれば成せる」とはこのことかと思いました。
このお顔の面相をそのまま写されたという、大英博物館に秘蔵されているといわれる「生身のお顔の絵」の複製が、本堂の奥にお釈迦さまの誕生のお姿を祀る「花御堂」がかたずけてある薄暗いその奥にガラスの入った額の中に在りましたので、お話の後、写真を撮らせていただきました。

 

この下の写真の左側に、下部は花御堂に隠れて読み取れませんが、縦書きで、

「釈尊は成道後6年、初めてカピラ城を訪問す。父浄飯王を始め、義母波闍波提・耶輸陀羅・・・・
中の王族が感激して ひそかに出家を志望した。(王、亡きあと波闍波提は出家して大・・・・
尼となる)父王は画師に命じ釈尊の生身を墨で写生さした。それがこの写真である・・・・
の仏教徒はこれを大塔に密封していたが、度重なる戦乱に此れが紛失する事を恐れ、18世・・・・
国が印度を植民統治するに当たりロンドン国立博物館に深く秘蔵!! 杉本 記」

とありました。

撮らせていただいた額入りの画像の横に書いてあった由緒書きのような文章の見えている部分だけを書き写しました。
「杉本 記」の杉本とは、誰なのか分かりませんが、もしかして当時、仏跡を旅し古画を模写していた近江出身の画家・杉本哲郎なのだろうか・・・などと謎は深まります。
また、これには、「父王は画師に命じ釈尊の生身を墨で写生させ」ととありますが、よくよく考えますと、紀元前500年のインドには、墨も紙も無かったのではないでしょうか・・・。
何れにせよ、ご住職の描かれた「成道の釈迦」のお顔は、その画像(絵の写真なのかどうかわかりません)が、それがインドが英国から独立した当時のブッダガヤの大塔に保管されていたことが事実だとしたら、当時の大塔の管理は、ヒンドゥー教のシヴア派の僧院(Math)の可祭であるMahontの所有物だったこともあり、その周囲にはヒンドゥー教徒やイスラム教徒の社会が築き上げられ、それぞれの祈りや儀礼の場所として礼拝の場所として大塔その物が築き上げられていた点を気にすると、やはり、この平等寺の和尚直筆の油絵・「成道の釈迦」図に描かれたお顔は、ほんとうに仏陀なのでしょうか・・・。もしかして、当時のヒンドゥー教のお坊様か、サドゥー(修行者)のような気もします。
仏陀の生前中に写生された「仏陀のお顔」の絵、英文でネット検索にかけますと、平等寺の写真とはまた違うこんな図が出てきます。これも、釈尊成道後6年、つまり41歳のお顔となっています。この左の図は、釈尊がアーリア系のインド人ではなく、釈迦族がモンゴロイドだったことを感じさせます・・・・。ただし、この絵は、弟子の富楼那(プルナ)が描いたことになっています。やはりでたらめなのでしょうか・・・。プルナは仏陀がいくつの時の弟子だったのか、また調べないといけません・・・。

と、「成道の釈迦」の内容の信憑性は、よくわからないことになりましたが、和尚自らが、熱い情熱をもって苦難を乗り越え、托鉢や講演活動で得た浄財で平等寺を再建復興されたことは、驚嘆と尊敬に値することです。
和尚の幼いころの経験談や多くの経歴を通して、「事を成すには、決めたら迷わず成ることを信じて真っすぐ進むこと」を教えていただきました。

急ぎ足の半日旅行となりましたが、編集者をしている仏絵師の私としましては成道図の興味深いお話に、今後の私の仕事における課題を頂戴したようで意味のある小旅行でした。

 

写真:正垣・藤野
編集・文責:藤野正観