2018年2月16日(金)毎日新聞 (滋賀 京都)(広告)

京都・清水寺山門の近くに境外塔頭の来迎院という小さなお堂があり、経書堂の名前で知られている。
この経書堂は聖徳太子がこの地に来た時、阿弥陀、観音、勢至の三尊仏が空中に影向するのを拝して草創したと伝えられている。
このように清水寺と聖徳太子は浅からぬ縁がある。今回、京都チャーチル会の園侯一さんが描いた油絵・聖徳太子「厩戸皇子十五歳の元服姿」が清水寺に寄贈されたのを機会に清水寺、森清範貫主と園さんに対談してもらった。

 

 甦る聖徳太子

音羽山清水寺 森清範 貫主
(もりせいはん) 1940年(昭和15年)京都市清水に生まれる。
15歳で当時の清水寺貫主・大西良慶和上のもと得度。
63年(同38)花園大学卒業、円福寺(京都府八幡市)で修業後、清水寺・泰産寺住職、清水寺法務部長などを経て88年(同63年)4月清水寺貫主、北法相宗管長就任し、現在に至る。著書多数。

チャーチル会・京都会員 園 侯一 さん
(そのこういち) 1933年(昭和8年)福岡県に生まれる。
元阪急17番街商店会会長。京都チャーチル会会員、大阪而妙会会員、
京都ロータリー会員、京都仏教クラブ会員など。

 

今回の聖徳太子像の寄贈までどんな、いきさつがあったのですか?


昨年7月、京都チャーチル会の作品展があり、私は50号のこの「厩戸皇子十五歳の元服姿」を出品したのです。
暫くすると会場を訪れていただいた清水寺の僧侶から「感銘を受けた」という趣旨の葉書をいただいたのです。
せっかくの連絡、清水寺さんに納めなくては、と思ったのです。

森貫主
当山には聖徳太子像を御本尊とする経書堂があるように日本の仏教の興隆者である聖徳太子と深い縁があり、その御本尊の太子十六歳像はこれまで開帳したことがない秘仏になっています。
そんな縁から聖徳太子の皇子時代を描いた園さんが大作を御奉納いただけるというので本当にありがたいことです。
このような50号の大作は完成するまでご苦労が多かったでしょうね。


ほぼ半年かかりました。私は若い頃、呉服関係の仕事をしていました。そこで着物や帯、橘衿などの下絵も描いていたのです。
絵心はそんな時から育ったのだと思います。呉服店が時代の流れの中でうまくいかなくなり、フランスやイタリアから様々な雑貨を仕入れ、日本で売るというような雑貨輸入商に転身、この事業は成功し、大阪・梅田に10店余りを出店するほどになりました。
また出店した阪急17番街商店会会長などを長く務めたのですが、パリやローマに仕入れに行くたび、美術館巡りを楽しみにしていました。
70歳になった時、仕事はすべて辞め、趣味の絵画の世界に本格的に飛び込んだのです。
仏教伝来に関心があったので仏画に集中しました。これまで寒山拾得や達磨大師あるいは鑑真像、地蔵菩薩などを描いてきましたが、こうした伝説的な大師や僧侶、あるいは賢者たちはいったい、どんな時代背景や信仰から生まれたのだろう、と自分で確かめたくなりました。
それで中国・敦煌の莫高窟や仏教の源泉を尋ねてチベットなど何回も訪れ、自分の目で調べ、納得したいという気持ちが強かったのです。
こんな好奇心の虜になっだのには、私が1937年、5歳の頃から終戦の年の1945年まで多感な時期を中国・南京で過ごしてきた経験があっだのかもしれません。
今回、聖徳太子像を描くにしてもこれだけの日本の歴史上、最重要な人物です。長く日本のお札の肖像画にも使われたほどのお方ですから様々な聖徳太子像が伝えられてきています。どれが本当の太子像を伝えているのか、私が全エネルギーを傾けられる像はどれか。これだ、と思ったのはある厩戸皇子の元服姿だったのですが、出会った時はボロボロな状態でした。それを自分のこれまで調べたことなどに当て嵌め、描いてきました。達磨大師もみんなそうです。

森貫主
それで半年も時間がかかったのですね。


先ほど申しましたように私は絵画とは多少、縁ある仕事をしてきましたし、またヨーロッパの絵画に深い関心があり、鑑賞してまいりましたが、専門教育を受けていません。ただ、描き出すと今回の場合なら、聖徳太子が「その構図は違うだろう」[色彩はもっと工夫できないか]と語りかけて来るのです。その声に耳を傾けながら何度も何度も描いては直し、直しては描きの連続でした。

森貫主
本当に貴重な労作、ありがとうございます。当山で大切に保存致します。

先ほど園さんが仏画を描く苦労を話してくれましたが、清水寺は世間では本堂の舞台と公益財団法人日本漢字能力検定協会が主催するその年を象徴する漢字一字を大書して発表することが有名です。昨年は「北」が選ばれました。貫主さんはずっとこの揮毫を引き受けておられますね。

森貫主
今年の漢字はその日正午、公益財団法人日本漢字検定協会から届けられ、初めて「今年の漢字」を知ります。書くのは午後2時。一気に書かなければなりません。その漢字に元々どんな意味があるのか、それがその年の何を象徴するのか、そしてどんな書体にするのか。何しろテレビや新聞、インターネットを通じて多くの人が注目していますからいささかもおろそかにはできません。普段からの修練が大切ですね。
例えば、「北」という漢字は二人の人が互いに背を向け合っている形からできています。ですから手を合わせ合掌していた形がひっくりかえって手の甲が向き合うような姿です。つまり、そむいているのです。背反して話をしない。これではいけません。「北」が選ばれたのは北朝鮮の弾道ミサイル開発問題からでしょうが、やはり話し合わないといけません。
もっとも、こんなことを考えていては揮毫できません。一心に一気に書きます。ですから日頃の修養が重要です。

仏教には僧侶が学ぶべき五明がずっと伝えられてきました。
▽声明(しょうみょう、文法学)▽工巧明(くぎょうみょう、工芸)▽医方明(医学)▽因明(論理学)▽内明(ないみょう、哲学)のことです。
要は素養として、いろいろなことに通じていないといけないということです。
一昨年に日本漢字能力検定協会の漢字ミュージアムが完成し、そのセレモニーに出席するため、元首相の福田康夫氏夫妻に加え、中国、韓国の駐日大使夫妻がこられ、清水寺にも訪れました。その時に、3人の好きな漢字一字を私が色紙に書いて贈りました。福田元首相は「和」、韓国の駐日大使は「誠」、中国の駐日大使は「明」を選んでいました。私が色紙をお渡しするとき、「明」という字を選んだのは珍しいと思いましたので、中国の駐日大使にお尋ねしました。すると、大使は「明」という漢字は日と月からできていて、日と月は永遠にあり続けるものであり、永遠を意味すると話されていました。漢字というのは奥深いと感じました。 この漢字は中国の蒼顔が鳥や獣の足跡からヒントを得てつくっ茫といかれますが、中国だけでなく、朝鮮半島から日本へ、またベトナムなどにも伝わり、漢字を涵して交流する漢字文化圏がつくられました。漢字が文化を運んできたのです。
最近、興味深い話を聞きました。昨年の暮れ、中国の「人民日報」海外版の編集長が当山にこられインタビューを受けました。その中で漢字は現在も曰中韓三国で15億人に使われていて、日本で生まれた「和製漢語」が中国に導入されて、今の中国の現代漢語の語彙の中で28%を占めているというのです。日本はアジアの中で近代化にいち早く着手して欧米諸国から自然科学や政治学を学び、それを日本語の漢語に翻訳してきたのですが、それが中国に輸出されて文化交流が行われたのです。
漢字によって東アジアに文化の交流が行われたことをもう一度考えるべきだと思うのです。こういう歴史的経験を知ることで国際的な相互理解も深まります。


私は仏画の現地調査からシルクロー・ドに関心が深まり、古代ローマとのつながりを知りました。またこの過程で仏舎利に使われた玉の価値、またローマに運ばれた絹が、ローマの衣装文化を変えたことも分かり、あのソグド人がやはり、シルクロードを通って中国にも流れてきた、ということを知りました。教科書などでは分からない歴史や風土の流れですね。ところでこの清水寺のご本尊は[十一面千手観世音菩薩]だとお聞きしていますが。

森貫主
その通りです。御本尊は本堂奥に安置されています。秘仏でありますので常は扉を閉ざした中におられます。観音さまは「音を観る」と書きます。「音」とは何かといいますと、私を取り巻く環境一切をいっています。「世音」であります。「観」といいますのは何かといいますと、私ということです。つまり主観と客観ということです。観音さまは取り巻く環境一切の「音」を自由自在に観ることができます。しかし、われわれは分け隔てなく自由自在に観ることはできません。ですから、自由自在に観るには客体と主体が一つにならなければなりません。ポンと一つになったとき、初めて観音さまになるのです。 当山は奈良時代の終わりに観音さまの寺として創建され、平安時代に京都に都が遷されてからはずっと都の観音霊場の寺として、都の人たちの信仰をあつめて歩んできたわけであります。


本日はありがたいお話、ありがとうございました。今後、私が観音さまをテーマにした絵画を描く時があったら大いに参考にさせていただきます。

 

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※園会員より、ご提供頂いた新聞(広告)を藤野が書き起こしました。