仏教関係者が京都に集う会

死にとうない 

死にとうない 

禅の高僧は死に臨んで遺偈を残すが、江戸時代、博多、聖福寺の仙厓和尚は、最後の時に「死にとうない」といわれたそうだ。
その率直さに惹かれるが、機知に富んだ仙厓さんのことだから、後でぺろりと舌を出されたのかも知れない。

私は若いころ死ぬのが怖かった。
医師を志したのも死を医学的に理解したいと思ったからだが、医学を修めても死を恐れる気持ちはあまり変わらなかった。
そして医療は老いや病に対してはいささかの力を発揮するが、定められた死に対しては何も出来ないことを知った。

私の場合、医師として研修を始めたころから、癌の患者さんの最後を看取ることが度々であった。
しかし指導医からは臨終の患者さんに対しての医師の心構えを教わることはなかった。
私たち医師にできることは患者さんの栄養や呼吸の管理、最後の時の救命措置などで、患者さんの悩みを共有することは、医師としての冷静な判断を曇らせると恐れていたようだ。

医師は自分の肉親の医療は行っていけないとされているが、これは医療というものの宿命なのかもしれない。
しかし死が近い患者さんにとって、医師は唯一の頼りであり、このとき患者の悩みや苦しみを共有できる医師であればと思う。

前任の医科大学では入学試験に面接があった。
私は「腕は良いけれど冷たい医師と、あまりさえないけれど親切な医師とどちらがよいか」と聞くのが常であった。
答えに筋が通っていればどちらでも良い点をあげていたが、ほとんどの答えは前者であった。

確かに治る病気の時は冷たくても腕の良い医師の方がよいが、私たちが最後に罹る治らない病気の場合、文句なしに優しいお医者さんの世話になりたいものだ。

ハワイ大学の医学部入試では面接が重視され、この結果が悪いと筆記試験の成績が良くても不合格になると聞いた。
一人の受験生に対して心理学の専門家を含む複数の試験官が時間をかけて面談するうちに、医師にふさわしい資質の有り無しが分かり、複数の試験官の採点結果は不思議と一致するそうだ。

以前、私は腰痛に悩まされ夜も安眠できない時期があった。
私を診察した三人の整形外科医は、CTやMRIなどの画像検査で腰椎の変形をつきとめて呉れたが、私の背中を触った医師は一人もいなかった。
思い余って親しい指圧師に相談した所、私の脊柱を注意深く触診して問題の個所を発見し、そこを暖かい手で時間をかけて指圧してくれた。
何回かの指圧で私の腰痛は嘘のように治った。
医療の原点を教えられた思いであった。

最近日本の医学部でも漢方の時間を設けるところが増えていると聞く。
漢方では患者さんの身体の状態を調べて証を得なければならない。
同じ薬でも証の違いで効き目が違ってくるからだ。
パソコンに向かうのでなく、患者の身体に触れて視診と触診とを行ない、患者さんの訴えや病歴を聞き取る漢方本来のやり方である。
これはまさに近年登場した患者の物語に基づく医療(ナラティブ・メディシン)に一致するもので、ここに西欧医学のデータに基づく医療(エビデンス・ベイスド・メディシン)と東洋医学との接点が生まれるのではないだろうか。

文:本庄 巌

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