仏教関係者が京都に集う会

七十二年前を振り返って

七十二年前を振り返って

 昭和二十年八月十五日の正午、玉音放送のあと、日本は終戦となりました。
今年で七十二年になると新聞やテレビで報道。
私はその時、小学校五年生でしたが戦争の体験者の一人として当時の出来事を想い出し、考えてみる事にしました。

安養寺の北隣は小学校です。
現在は新しい校舎に建て替わっていますが、当時の校舎は京都でも歴史も旧く鉄筋三階建てのモダンな学校でした。
戦争がはげしくなった昭和二十年四月。
生徒達は集団疎開、または縁故疎開を強いられ、私も師匠が若い時に住人でいた兵庫県播磨の貞昌寺ヘー人で疎開。
愛知県には私の母が居りましたが何故か反対方向の貞昌寺に預けられました。
寺には東京や神戸から縁者の方が沢山疎開に来ておられ、大世帯でした。
子供だった私も田畑の手伝い、風呂焚き、子守など手伝う事が多く、転校先の東栗栖小学校でも勉強は皆無。
出征兵士の留守宅の麦刈りの日、鎌を見た事も手にした事もない私は鎌と麦の束を持ち鎌をI振りした途端、指を切り落とす寸前の大けが。京都の子は役に立たないと笑われた事。
今も左手薬指の傷あとを見るとその頃を想いだします。

京都では空襲警報が鳴るたびに寺の庭に掘られた防空壕に逃げ込んだ記憶がよみがえります。
六月、学校に隣接している安養寺は高層建造物の周囲五十メートルは強制疎開の通達。
止むなく引っ越しする事になり、御本尊様は勿論のこと仏具や什物等必要な物だけを持って近くの貸家に引っ越し、家具や襖や五右衛門風呂、畳など一切、近くの人に貰って頂いたそうです。
寺の襄にあった長屋の借家は取り壊され、お寺は最後ということで八月十五日午後、取り壌すことに決定。
その日の正午に玉音放送。
放送を聞いた町の人も役所の人も、何をしてよいのか右往左往。
でも師匠は寺の一大事ということで市役所に電話。市の職員の方達も、どうしてよいか、分からず「どうぞ御自由に」と。

師匠は門前に仁王立ちになって取り壊しに来た人達に帰ってもらったそうです。
その時の師匠の強ばった形相が目に映るようです。

十五日の正午を期して寺は間一髪、難を逃れることが出来たのです。
京都でも、このような事は珍しく、頭では考えられないこと。
仏様の御加護、縁の深さに、唯、合掌するのみです。
おかげ様で本堂も十一月にほぽ修理完成。
私も十月に疎開先から帰ることが出来、無事御本尊さまをお迎えすることが出来ました。
安養寺が今あるということは、このような歴史を通して不思議な御縁を頂いたと信じて居ります。

沖縄での激戦。
広島や長崎の原爆投下で沢山の人達が亡くなりました。
その沖縄が日本に返還される少し前のこと。
京都の府市会議員、政財界の人々、仏教会の人達が主となり宜野湾市嘉数に「京都の塔」が建つことになりました。
開眼法要には男僧六人、尼僧六人も加わり海上慰霊祭。
ボッーと汽笛を鳴らしながら船が旋回。お経と共に花束や散華、お菓子や酒も海に注ぎ、遺族の人達の泣き声など。
遺児の一人に本山御用達の柴田石材店の故柴田益夫さんも参加して居られました。

「ひめゆりの塔」や「健児の塔」もお参りしましたが墓碑は香華で一杯。
私とあまり年齢の変わらない女子学生が、傷ついた兵隊さんの看病。
健児の水くみ当番など、涙なしには語れません。

七十二年前と異なって現在の日本は、何でも求める事ができます。
反面、「ありがたい」、「勿体ない」の言葉を忘れがちです。
むかし昭憲皇太后さまが「ちよろずの命の上に築かれし平らけき世を生くる悲しさ」と詠まれたと聞きますが、時代は違っても多くの犠牲者があって今の平和があると知った時、安養寺の小さな出来ごとを通して今一度、手を合わせたいと念じます。      合掌

 

平成29年(2017)10月1日発行 ひかり第692号より
京都市西七条(安養寺住職 沢田教英)

仏教クラブ事務局 TEL 075-371-7380 10:00-16:00[土・日・祝除く]

PAGETOP
Copyright © 仏教クラブ All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.
Top