仏教関係者が京都に集う会

三蔵法師と歩くシルクロード

三蔵法師と歩くシルクロード  

中国西安からユーラシア大陸を横断してローマに至る絹の道・シルクロードのロマンに惹かれ、前後6回ほどシルクロードの旅に出かけた。
シルクロードは絹だけではなく、東西の貴重な文物、そして人々が行き交ったハイウエイでもあった。
西安から地中海に近いシリア・ダマスカスまでの私の旅のなかで、新疆ウイグル自治区とその西のウズベキスタン、タジキスタンは玄奘三蔵法師のインド往還の道と重なり、法師の足跡をたどる旅でもあった。
周知のように三蔵法師は国禁を侵して単身インドに赴き、膨大な仏典を中国に招来した方で、その苦難の旅は「西遊記」の物語にもなっている。
西安を出発された三蔵法師は河西回廊を経て、広大なタクラマカン砂漠の天山南路を西へと辿られている。
シルクロードは点在するオアシスに沿う道であり、砂漠地帯では水のある場所にだけ緑があり生き物の姿がある。そのオアシスの一つであるトルファン北の高昌国に立ち寄られた三蔵法師は、国王に請われてこの地で仏教の講義をされ、天竺からの帰途この国に立ち寄る約束をされたが、その前に唐に滅ぼされていた。今は崩れかけた日干し煉瓦がどこまでも続く廃墟であった。また天山南路のオアシス、クチャ西方のキジル千仏洞は、200余りの石窟内に仏画が描かれた遺跡であった。またクチャ近郊のスバシ故城は、仏教寺院として大いに栄え、三蔵法師はこの寺院で2か月の間、仏教の講話をされている。
今は静まりかえった天山麓の広大な敷地に、寺院の跡を偲ばせる日干し煉瓦が残るのみであった。
三蔵法師が立ち寄られたシルクロードの要所、ウズベキスタンのサマルカンドは青の都と呼ばれ、街の中心レギスタン広場にはタイルの青が美しいメドレセ(神学校)がある(図)。
法師が向かわれたタジキスタンは、最近、内戦が終わり入国が許されたばかりであったが、首都ドウシャンベの博物館には巨大な涅槃像があり、その南、アフガニスタンとの国境の街テルメズの博物館にも釈迦三尊像が展示され、仏教伝来の跡を辿ることができた。
テルメズの南を流れるアムダリヤ河の向こうはアフガニスタンであり、今は入国ができないが、法師は仏教遺跡の点在するバーミアンやガンダーラを経てインドへ入られている。
この地で法師は釈尊の遺跡を訪ねられ、またナーランダ寺院に滞在して仏教を極め、仏典や仏具の収集にも努められた。その間前後17年を要している。
インドからの帰路はパミール高原を超えて中国へ入られている。
現在もこの地の川沿いの山の斜面には、細く続くシルクロードの旧道が残されていて、経典を積んだ象や馬と歩かれた法師の苦難が偲ばれた。そのあと法師は中国最西端の街カシュガルに立ち寄られている。
シルクロード要所のこの街は、今はイスラム寺院が立ち並び、ウイグルの人々が昔ながらの生活を営んでいた。
法師はカシュガルで高昌国が滅びたことを知り、タクラマカン砂漠の南沿いの西域南道をとって長安に向かわれた。
途中、唐の大宗皇帝に国禁を犯したことのお詫びの手紙を差し上げられるが、大宗はこれを許し国を挙げての歓迎を受けて長安の都に帰着された。そして皇帝に願い出て大慈恩寺で経典の翻訳体制を整えられた。法師は数十人からなる翻訳チームを指揮し、椰子科の葉に刻まれたサンスクリット語の経典(貝葉経)を、中国語に翻訳された。いま西安の七層の大雁塔の前には三蔵法師の銅像が立っているが、法師の本当の偉業はこの19年間の大般若経をはじめとする膨大な経典の翻訳にあることが分かる。
ただ一人西安から西に向かわれた三蔵法師は、仏教の原点である経典や仏像、仏具をインドから中国にもたらされた。
この偉業達成はひとえに法師の道を求める行動力と、周りの人を魅了する高潔なお人柄によるものと思われる。
法師は仏教国の日本にとっても大恩人であり、私のシルクロードの旅の無事も、三蔵法師と同行二人の旅のお陰ではなかったかと思っている。

文:本庄 巌

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