仏教関係者が京都に集う会

布施って何?

経済至上主義の現代における仏教徒の布施行為とは?

三輪清浄・三輪空寂 の布施

仏教では、布施行為そのものを行とし、不殺生と共に慈悲の心を説きます。
布施行とは、仏道実践の一つで、仏教では特に強く説かれます。
この布施には、施す者も、受け取る者も、施す物品も、この三者ともに清浄で、なんの執われもないものでなければなりません。
これを「三輪清浄(さんりんしょうじょう)とか三輪空寂(さんりんくうじゃく)の布施」といいます。布施はこの清らかな心で行なわれなければなりません――。

しかし、一方で、既成の仏教教団でも、今風に表現する時、布施の行為を、概念が単なる人道的・道徳的な奉仕と変化しつつあるボランティアとかチャリティとか、とよく似たイメージで語られることが多くなってきました。
そんな中において、私たち仏教クラブでも、「墨蹟展・三宝の集い」を分かりやすく皆さんにお知らせする時、チャリティ的な催しとして紹介したり、それに協力参加される一般会員や周囲の関係者をボランティアと呼んだり、そんな言い回しをすることが多くなってきました
このサイトを制作・運営・管理をさせて頂いていることを布施の実践と信じる私は、言葉選びも慎重になることが多く、キーボードを打つ手も止まってしまうことも多々あります。

そこで、この機会に、私自身が認識を新たにするために、もう一度、布施という行為をはじめ、それらのよく似た善行のもつ本当の意味を理論的に探るべく、手元にあった平凡社編集の日立デジタル百科辞典より、淡々と抜粋掲載し、仏教徒の布施とは?また、現代の社会システムにおける布施とは何か?など、皆さんと共に一緒に勉強させて頂くことにしました。

経済至上主義の現代における仏教徒の布施行為とは?執着のない境地とは?もう一度、じっくり考えてみませんか?

とりあえず、このサイトの管理人である私の結論として、「布施とボランティアの違い」というページに掲載してみました。

by Fujino


 

以下は、ネットに公開されている仏教的文脈より、布施に関連のあるさまざまな文章を、社会通念として、一般論として、ご参考に抜粋引用掲載させて頂きました。

これらの内容は、寺院と檀家の間に限定した布施の解釈もあり、布施を受ける側の切実な論理など、興味深いものもあります。
当然、内容は重複していますが、現代仏教者の布施に対する解釈の度合いを表しているようです。これらの文脈は、特徴ある一部を抜粋し、検索をかけますと、著作者のサイトに辿り付けるはずです。

※誠に身勝手では有りますが、これらの引用文は、法施という解釈をさせて頂き、ここに引用、転載させて頂いております。もし、これらの文章の転載・リンクに異議のある方は、削除いたしますので、著作者は、ご一報くださいませ。


布施行とは
自分だけの欲望を満たそうとせず、他の人を思いやり、お互いに与え合い、苦しみも、喜びも共に分かち合う調和のとれた安らぎの世界。「何か布施したいけれど、私には差し上げるものがない」とおっしゃる方達はどうすればよいのか。そういう時は笑顔でも良い、優しいことばのひとつでもかけられるではありませんか。
『雑宝蔵経』には「無財の七施」が説かれています。優しいまなざしと慈愛に満ちた微笑で人に接するのが「眼施」と「和顔悦色施」。優しいことばで人に接するのを「言辞施」。自分の力を人様に貸すのを「身施」。優しい心で他人に喜びを差し上げるのが「心施」です。
布施行をして、「こういう事をして上げた」、という思いが心のどこかに少しでもあるのなら、それは、正しい布施とは言えないのです。執われずに行じることが陰徳を積む事になります。
次に、自分の座席を人に譲る「床座施」。そして「房舎施」、宿を貸す事です。このように日常、何時、どこでも布施行は出来るのです。

中村公隆師法話より

布施とは、
「布施」というと、”お寺さま”へのプレゼントぐらいにしか考えられていないようですが、そうでは
ありません。 布施は仏道修行者が、初めから終わりまで実践しなけれはならない大切な徳目です。六波羅蜜(はらみつ)の第一に「布施」がおかれるゆえんです。
布施を、一言でいえば「相互扶助」であり「与え合い」です。
布施行を積んでゆくと、この世に存在するものすべて - 人間に限らず、動植物から大自然に至るまで、何らかの形で互いに恵みを受けつつ、また与えつつ生かされ生きている真理が実感されます。そしてこの真理なくしては、何ものも存在できない事実が体験できます。
つまり「一即一切・一切即一」という華厳経に説く毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の世界観です。
いいかえるなら、私たちは他から受ける恩恵に感謝するとともに、他に恩を返すことに意義とよろこぴを覚えるのが「布施の真髄」です。
とは《あまねく・広く》の意味です。
は、施し・与えるよりも、むしろ《お返しする》ニュアンスを待つ言葉です。
布施の原語は、梵語のダーナで、音写して「檀那(だんな)」と書きます。
檀那は本来「施しをする人」のことで、檀那寺・檀家という存在が生まれます。

布施は財力や学力がなくても、柔かい心、優しい心さえあればりっばにできるから、「無財の七施」といいます。
無財とは、「財源や財物が無くても」というだけではありません。
「金銭では算定できない尊い価値」で、この意味で「無価」といいます。
絶対の価値ということです。

無財の七施とは以下のとおりです。

捨身施 動作で人によくしてあげる。
心慮施 他者の悲・喜を自分のこころとする。
和顔施(わげん) やさしい顔、ほほえみで接する。
慈眼施(じげん) いつくしみの眼でみつめる。
愛語施 あたたかい呼びかけ。
房舎施 住む場・心にゆとりを与える。
床座施 座席をゆずる・ゆずりあい。

私たちは、自分の力で生きるのではなく、生かされて生きるのです。 このことへの謝念の実現が「布施」なのです。


お布施とは
お布施といいますともっぱらの関心事は、いったい相場はいくらぐらいなんだろうということではないでしょうか。
まずは隣・近所に相談したり、実家に尋ねたり、あげくの果てにはお寺に聞きに来る人もおられます。
おそらくは、少なすぎても失礼だし、かといって多すぎると家計に響くしということだと思われます。
本来布施といいますのは、六波羅蜜という、大乗仏教において菩薩が悟りに至るために実践すべき六種の徳目の一つです。
そして、この布施とは、他に与えることをいい、具体的には法施と財施と無畏施の三種類があります。
法施とは、お寺さんが法事のお勤めや法話をしたり、お寺の護持をしていく行為を指します。
また財施とは、そういうお寺さんに対し、例えば金銭などの財施を施すことを指し、また無畏施というのは、いわゆる「和顔愛語(わげんあいご)」で、明るい顔で人に接したり、やさしい言葉をかけたりすることをいいます。
ですから、お布施といいますのは、仏教の理想である与え合うという精神が元であり、どちらかの一方的なものではありません。
お寺側が法施をし、皆さんが財施をすることで成り立ちます。
そして皆さんのお布施は宗教法人の収入となり、お寺の生活を含んだ寺院の運営護持の為に使われています。
従って、お布施は仏法を伝えていくという意義があるのです。
その為、お経を上げてもらった代金というものではありません。
また、尊い仏法は金銭で値打ちをつけられるものではありませんから、
お布施の相場というものも本来は無いのです。


お布施とは
「お布施」とは仏教では六波羅蜜のひとつとされ、「大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなければならない六つの修行」の第一番目のもの、布施波羅蜜のことです。
「布」は精神的に広く行き渡ること、「施」は物質的に恵みを授けることです。
布施とは、決して金銭や財産を施すことだけを言うのではなく、自分のできることで相手の利益になることを相手を選ばずにしてあげることなのです。

お布施とは「取られるもの」ではなく、仏教本来の意味からすると供養つまり喜捨のことなのです。
世間の慣習だからやるというものではなく、感謝の気持ちを持って仏に差し出すものですから、その時に自分の心のなかにほんの少しでも「惜しむ」気持ちがあったりすると、仏教の基本である「自我への執着、お金や財産など物質への執着を断ち切る」という考え方に反することになります。

お布施は、喜んで仏に対して差し出すものですから、何かの行為に対する対価などではなく、また僧侶はそれを預かる媒介役を務めるものです。


皆さんはお布施と聞くとどういったことを連想されるでしょうか。

布施は「布」という漢字が使われていることからも、僧侶に衣類を施すことがその意味のはじまりだったようです。
布施とは、布施をする人と、布施を受ける人と、布施をするモノという三つで成立して、それぞれ施者、受施者、施物と呼ばれています。そしてこれら三つが清浄でなければ布施とはならないとされているのです。
一般的にモノをさしあげれば、受けとった人は「ありがとう」といいます。しかし、布施のこころから
すれば、もらった人だけでなく、施した人も感謝するということなのです。施させていただきまして有り難うございます。ということなのです。そして、施すモノに対しても優劣をつけないのです。こうして施者、受施者、施物が清浄ということになります。
さて、お寺(僧侶)も布施はいたします。それは法施と呼ばれるもので、仏さまの教えをお伝えすることです。ですから、お経をお読みすることも、法施ということになります。そしてこの法施についても、感謝のこころでお伝えすることが肝要といえます。またお布施があるから、法施があるわけではないですし、法施があるからお布施があるわけでもありません。それぞれがさせていただくという気持ちで存在しているのです。布施とは、施物を通したお互いの感謝のキャッチボールのようなものです。そしてその施物はその人が出来る範囲での、相手に対するこころづかいなので、決して無理をすることではないのです。
また、布施には布やお米やお金といったモノがなくてもできる「無財の七施」と呼ばれるものがあります。それは、「眼施(げんせ)」(やさしいまなざし)、「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」(やわらかくおだやかな顔)、「言辞施(ごんじせ)」(あたたかい言葉)、「心施(しんせ)」(あたたかい心がけ)、「身施(しんせ)」(おもいやりの行動)、「床座施(しょうざせ)」(席をゆずる)、「房舎施(ぼうしゃせ)」(部屋をきれいにして迎える)、といったものがあります。
考えてみると、私たちはこれらの無財の七施によって、こころを豊かにさせてもらったことが一度ならずはあるような気がします。
このように布施とは、私たちがよりよく豊かに暮らしていくためのヒントがかくされているような気がします。「これだけのことをしてやったんだから、感謝されて当然だ」というような気持ちでは決して、気持ちは安らぐことはないでしょう。そして、この布施のこころからこそ、「もったいない」という気持ちも沸いてくるのかもしれせん。
これからの時代は、目に見えないところにこそ、人間は目を向けて生きていかなければならないような気がします。 (欅仏教青年会)


六波羅蜜
私たちは、死ねばかならず 彼岸にいくことができます。娑婆の苦しみも、死ねば消えてなくなり、彼岸に渡ることができるのです。(ただし天寿を生きぬかなくてはだめ)といっても 私たちも生きている間に少しでも向こう岸にの近づけないか?と思うでしょう。
そこで仏教が教えるのが、「六波羅蜜」というものです。
六波羅蜜の波羅蜜とはインドのサンスクリット語「パーラーミーター」の音訳です。
「向こう岸に渡る」という意味です。つまり、六波羅蜜とは「彼岸へ渡るための六つの修業」いうことなのです。六波羅蜜は「六度の行」ということもあります。
六度の「度」は「渡」と同じ、渡る、という意味ですが、六波羅蜜の行を行えば、私たちは生きながらにして彼岸に渡れるというわけです。

さて、その六波羅蜜の行を順に挙げていくと、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。
この六つをやれば彼岸に行くことができるというわけです。
六波羅蜜は彼岸へ渡る6枚のチケットです。

それではこの六波羅蜜を順に説明していきましょう。

布施
これはみなさんがあまり得意ではない例のお布施です。
大きな寺院の檀家であったりすると、やれ本堂の改修だの、山門の修繕費用、とか庭園の管理費用等の理由でなかなか ばかにできない金額の寄付(お布施?)が現在は、半強制的に 檀家総代を通じてご依頼されてくるようです。

私は布施とは、他の人から強制されて行うものではないと思っています。
布施とは、本来 布を施すと書きます。インドは暑いから、本当は裸の方が過ごしやすいけれども、そうも行かない。
虫だって刺します。そこで布をまくわけですが、その布を施すということから布施という言葉ができました。

布施は六波羅蜜の中でも1番取っ付きやすいことですね。
自分が苦心して育てた作物を仏様に施すことが本来の布施ではないでしょうか?
多額の金品を寺院に寄贈することだけが、布施ではないと私は考えます。

そうでないと、大金持ちだけが彼岸へのチケットを手に入れることになります。
それでは、何かおかしくはないですか?

布施というからには、その見返りを要求してはいけません。布施はあくまで無償の行為です。

心施、顔施のすすめ
ものを施すことだけが「布施」ではありません。別に「品物やお金」でなくてもいいのです。
心をプレゼントする事を「心施」と言います。文字どおり心を施すということですが、優しい言葉をかけてあげるそれも立派な布施です。
「お元気ですか、ご機嫌はいかがですか?」と声をかける、そうすると相手も、「ああ、自分のことを心配してくれている人がいる」と思って心が慰められる。病気で落ち込んだ気持ちも軽くなるというものです。
心施は、何も気取ったことを言う必要ありません。悩んでいる人、困っている人に声をかけて、その人たちの話を聞いてあげるだけで十分なのです。
悩みを人に話せば、それだけでも楽になる。何も、その悩みを解決してあげようなんて思わなくていい。
聞くだけでもいい。それが心施です。

優しい言葉や思いやりをあげるのも ちょっと大変という人には 顔施という言葉があります。
これはもちろん、何も自分の首を切ってプレゼントすることではありません。誰でも一人一人顔を持っています。その顔でニッコリ笑ってあげるということが、顔施です。
和顔施とも言います。和やかな顔を施すということです。
口下手な人にだって、にっこり笑うぐらいのことはできますちょっと不器用な人、今は余裕のない人には心施 顔施 をおすすめします。  参考文献「寂聴 仏教塾」引用


お布施とは、
ご法事などの折、お寺に納めていただくお金は、「お布施」として頂戴しています。
これは単に呼び方の問題ではありません。定価が決まっていない「お気持ち」だからでもありません。
「布施」とはその字の表す通り「広く施す」ことであり、また、見返りを求めないのが原則です。ですからお布施が多いから、少ないからといって、お経や戒名が長くなったり短くなったりはしません。(よそのお寺のことは知りませんが‥‥)お寺(僧侶)は、お布施をもらおうがもらうまいが、可能な限り施主(願主)のために最善を尽くす、ボランティアの元祖のようなものなのです。その最善とはいわゆる施主の個人的な利益ではなく、もっと広い社会にとって還元されるべきことは言うまでもありません。

もちろんお布施によって、お寺の建物や管理費が成り立っているわけで、そういう会員制クラブ(寺)とメンバー(檀家)との関係のようなものがあることも確かです。
しかしくどいようですが、布施は本来そういうものではありません。

また「布施は出す人の功徳のため」などと言われることがあります。自分自身の欲を捨てることが重要だ。だからそのお金がどう使われるか問うべきでない、という人もいますが、それは間違いです。

布施はそれを出す人、受ける人、そしてそのものが、調和のとれた関係を保つことが大切だと説かれています。ですから布施の使い道やその結果にに関心と責任を持つべきなのです。
布施として与えるものは、何もお金やモノだけではありません。席を譲ることや、やさしい接し方、励ましなど、他者に対する行為や態度も、その人の気持ち次第で布施になりうるのです。
布施が、仏教徒としてもっとも大切な徳目であるということは、一つ一つの存在はすべてのものとつながりを持っているという仏教の根本的な考えに基づき、意識的に、前向きに他者と関わっていくこと、交わっていくことによって、人間らしく生きることができるからなのです。


悟りへの道「六波羅蜜」

仏道修行を通じてこの我執(がしゅう)が取り除かれたとき、周囲の人々やあらゆる生き物に対して慈悲心が開花します。この慈悲の心を完全に体得したとき、自分と他人の対立・区別が無くなり、他人の幸福は自分の幸福、逆に他人の不幸は自分の不幸という、自他一致の心理が生まれます。また、自分が幸福になれば、その福徳を少しでも他の人々に役立ててもらおう、という心理が作用します。わかりやすく言うと、それは抜苦与楽(ばっくよらく)の精神に尽きます。苦をなくして楽を与えるという意味です。
このような心を持ち、実際に行動に移す者を、仏教では菩薩と呼んでいます。
大乗の菩薩が涅槃(ねはん)の境涯(きょうがい)に到るための修行方法を波羅蜜(はらみつ)といいます。
簡単ないい方をしますと、生きて成仏するために修行しなければならない修行のことです。

布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧の六種の修行があり、これらを六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。
お釈迦様は、この六種の修行を通して、悟りに到る道を明かされました。悟るとは、無我や空(くう)、つまり、無差別智(むさべつち)の立場に立ち、個人レベルの幸・不幸の視野を超越して、宇宙的な観念の世界観を持つこととなります。これを真理に目覚めるといいます。仏教では、私たちが住むこの世のことを娑婆(しゃば)と呼び、悟りに到った者は、その目覚めを自分だけのものとせず、他の人々に伝えてこそ、『真の自覚』を得るのです。
菩薩というものは、声間界(しょうもんかい)や縁覚界(えんがくかい)の境地を離れて、仏様のお教えを守り、自らを仏様の心に近づけるべく精進を重ね、その結果として迷いを離れ、他を救う働きをいいます。この六波羅蜜の法門はすべて自他を救うことが前提となっています。

お釈迦様も、五十年間にわたって悟られた真理を、幾多の衆生(しゅじょう)に説き広める実践(法施)を重ねられました。仏心とはそういうものでなくてはならないと思います。


【布施波羅蜜】

布施波羅蜜(ふせはらみつ)は、別名、檀那波羅蜜(だんなはらみつ)ともいい、さまざまな施(ほどこ)しをさせて頂く修行のことです。簡単にいうと、貪欲(とんよく)の心を対冶(たいじ)して、人に財を与え、法(真理)を教え、安心を与えることで、完全な恵みを施すことです。
お布施というと、信者や檀家の人がお坊さんに対して施す金品が一般的になっております。これらのお布施によって寺院が守られる事となり、僧侶が教えを広め流布(るふ)することができるのです。これらの布施の行為が長い間続けられて、法が絶えることなく伝えられてきているのです。よくお寺で『檀家さん』という言葉を耳にしますが、これは、檀那波羅蜜の壇那(だんな)は元々布施の意味ですから、経済的な援助(布施)をする人を世間一般に檀那とか檀那様といいます。この檀那の人達の家族を檀家と呼んでいるのです。

さて、布施行には、財物を施す財施(ざいせ)、恐怖や不安を取り除き安心を与える法施(ほうせ)、法を説き与える修行を実践する無畏施(むいせ)があります。

(a) 財施
財施と言うのは、文字通り、金銭や物品を他人に施す物質的な布施のことをいいます。
地震や水害時などの衣類・毛布・食料等々の生活用品や義援金なども、この財施にあたります。
お布施の心がけを少しお話ししますと、本来、人間は欲深く罪深いものです。お寺へのお布施なども、金額が定まっていないと、いくらですかと尋ねられる方が多くなりました。お布施は、自分の出来るだけの気持ちを喜んでさせて頂くというのが趣旨であります。このことから、お布施をすることを喜捨(きしゃ)ともいいます。喜捨は喜んで捨てると書きます。この意味は、喜んでさせて頂きますという心がけの大切さを教えています。このような気持ちで、仏様の教えを守り伝える僧侶や自分より経済的に苦しんでいる人に布施することが、自分の罪障を消滅することになるといわれています。お金の有る人は有るなりに、無い人は無いなりに、自分の能力に応じて布施させて頂くのが基本なのです。このことから、お寺などのお布施は金額を定めないのが本来の姿なのです。
また、托鉢(たくはつ)行の時など、「あの坊主は、お布施したのに御礼も言わない!」と耳にすることがあります。これは、何々してやったという人間の醜い姿の現れであります。
また、一般には、お布施の金額が決まっていないと、少ないとケチと思われはしないか、また、多ければ多いお布施も、法要のお経や説法などがお布施の金額に見合ったものかどうか査定をしたり、見栄の心や欲深い心が顕(あらわ)れたりします。

仏様の教えを守り、説き広める場であるお寺や僧侶の皆さんは、逆に布施する人に対して、金額の大小で囚われたりする心があってはならないのです。布施をする者とされる者が清浄の心となって、互いの罪を消し、功徳(くどく)となり得るのです。このことを空無我(無自性・無所得の自覚)でなければならない修行とされ、菩薩道を代表する実践法となっています。空無我とは、施す者も、施しを受ける者も、施し物も、全てが執われを捨てたものでなければならないという意味になります。

(b) 法施
法施は、仏様の理想とする教えを説き、迷い悩む人を救い、悟りの世界へと導くことをいいます。出家者たる僧侶の方は、この法施の第一線に立つのが本来の役目とされています。また、仏様の教えを信じる在家の方も、縁ある人に仏様の教えを伝えることがとても大事なことだといわれております。
簡単にいうと、人に物事の道理を説くということです。一般の方でも、豊かな知識や智慧のある人は、物やお金はなくても、人にものを教えたり、導いてあげたり、拘(こだわ)りや囚われから離れる方法などを教えてあげることができます。どんな人でも法施はできるのです。悩んでいる方は、他人の体験話を聞くだけでも随分救われたりするものです。このような行為も立派な法施です。
実生活の中で、暮らしの知識を教えることも広い意味で法施に当たります。例えば、おいしい漬物の漬け方や編み物の仕方、パソコンの使い方などを手ほどきしてあげたとしても、やはりそれは法施なのです。このうちのどれでもいいですから、自分にできる布施を実行して、人の役に立つことが肝心です。

(c) 無畏施
無畏施というのは、人の悩みや恐れを取り除き安心を与える布施をいいます。その気になれば、たとえ、経済的にゆとりのない境遇の人でも、自分の体を使って労力を提供したり、いたわりの言葉をかけたり、優しさのある微笑で人と接したりすることは出来るものです。心がけ次第で、困っている人達のために、「布施の心」は持てるはずです。

仏様は、雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)の中で、財力もなく知恵も無いという人の為に、次に掲げる『無財の七施』をお説きになりました。

《無財の七施》
眼施(がんせ) 優しい眼差しで人に接する。
和顔施(わがんせ) 和やかな明るい顔で人に接する。
言辞施(ごんじせ) 優しい言葉をかける。
身施(しんせ) 身をもって布施する。
心施(しんせ) 心の底から人を思いやる慈悲心を施す。
牀座施(しょうざせ) 例えば、先輩やお年寄りに自分の席を譲る行為。
房舎施(ぼうじゃせ)例えば、困っている旅人に一夜の宿を提供したり、休憩の場を提供したりする行為(昔はお遍路さんなどに対して行われていた)。

以上のように、布施ということが菩薩行の第一条件とされているのは、大変意味深いことと言わなければなりません。

さて、こうした仏教的文脈の中でもう一度考えてみると、報酬とか対価という資本主義的概念が、なんとも仏教になじまないことがよくわかります。


 

※以下の記事は、考察のための資料として日立デジタル平凡社刊世界大百科辞典より引用・転載しているものです。


布施
ふせサンスクリット d´na の訳で、音訳は檀那である。
両語を合わせて檀施ということがあり、布施する者を檀那檀越(だんおつ)、檀家ということもある。
仏や僧や貧窮の者に衣食を施与することで、仏道修行では無欲無我の実践である。
したがって正覚を開くための六波羅蜜の一つにかぞえられる。
キリスト教のにあたるのが仏教では慈悲であるが、慈悲の実践は布施と不殺生である。
日本仏教でも布施はよくおこなわれ、法要があればかならずその後で貧窮者への施しがなされた。今日、葬式のあとで粗供養を出し、銭まきをするなどはこれで、僧侶だけに与えるのを布施というのはその変化である。これに対して、僧侶が経を読み説経するのを法施という。            五来 重(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.


檀那
だんな

サンスクリット d´na の音訳で、布施の意。梵語と漢語を合わせて檀施とも記す。また布施する人を意味する檀越 d´na‐pati と混用され、寺院や僧尼に衣食住を施与する信者を、僧の方から檀那、檀越(だんおつ)という。
中国には檀家制度がなく、寺院が特定の檀越に支えられることは少なかったが、貴族豪民には一家の菩提寺を建てて、寺院に与えられた特権を横取りしたり、寺院の質庫に財産を寄託して殖産をはかるものもあった。             竺沙 雅章

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檀越
だんおつ

〈だんのつ〉とも読む。サンスクリットのダーナパティ d´napati の音写で、施主のことである。
檀那(旦那)(だんな)と同意語として混用される。
僧に帰依し衣・食・住に関する物資を施入する信者や、寺の開基となったり、また寺の経営を支える檀信徒など、仏教を後援する人をいう。
禅宗では檀那拈香(ねんこう)と称して香を拈じてたき、寺の開基となった檀越を供養し、また檀那諷経(ふぎん)と称して檀越の繁栄を祈裳し、祖先の追善供養を目的とする読経が行われる。
日本における檀越の語は、749年(天平勝宝1)の〈聖武天皇詔書銅板〉に、〈代代国王、為我寺檀越〉とあるのがはやい例である。               竹貫 元勝

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檀家
だんか

特定の寺院と永続的に葬祭の関係を結び、布施を行ってその寺院の護持にあたる家。寺僧を供養するという意味のサンスクリットのダーナパティd´napati の音写である檀那、檀越(だんおつ)に語源をもつ。これらが個人的な師檀の関係であるのに対して、家として関係を結ぶものを檀家と呼んで区別する。公家や武家が家の菩提寺をもったことに始まり、近世初頭に小家族形態の近世的な〈家〉が広範に成立すると、それらの集合菩提寺が生まれ、両者の関係が永続的に固定化して、檀家が一般的に成立した。こうした歴史的状況を背景に、江戸幕府がキリシタン禁制実施の手段として、寺僧をして民衆が檀家であることを証明させる寺請制度を始めたため、すべての民衆がいずれかの寺の檀家とされるにいたった。明治維新後、制度としての檀家は寺請制度の廃止によって失われたが、寺と家との関係としての檀家は、仏教教団の基礎構造であったことと、明治民法による家制度の法制化によって存続し、家制度の廃止された現代でも、寺院の信徒把握の基本形態として続いている。そのような檀家の永続的性格は、家の本質である系譜連続性を維持するための祖先崇拝と深い関係にある。そのため、家族全員が同一寺院に所属することが必要とされる。しかし、家族内に檀那寺を異にするものが含まれ、かつ継承されていく半檀家とか複檀家と呼ばれるものがみられる(半檀家制)。それを遺制的なものとみるかどうかについて論議があり、問題を残している。⇒寺檀制度               大桑 斉

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六波羅蜜
ろくはらみつ

〈ろっぱらみつ〉ともいう。波羅蜜はサンスクリットの p´ramit´ を音写した語で、波羅蜜多ともされる。〈完成した、到達した〉を意味し、仏教経典では古くは〈度(ど)〉、またのちには〈到彼岸(とうひがん)〉などとも訳されている。この度や到は〈渡る、到る〉の意味で、迷いのこちら側から、悟りのむこう側へ渡った、到着したことを表している。大乗仏教の最も重要な修行方法を六種とし、それらの完成した、完全なあり方を波羅蜜と名づけたのである。その六種とは、布施(ふせ)(与えること)、持戒(じかい)(戒律を守ること)、忍辱(にんにく)(耐え忍ぶこと)、精進(しようじん)(ひたすら努力すること)、禅定(ぜんじよう)(心を集中・安定させること)、智慧(ちえ)(とらわれなく判断すること)である。これらが単にみずからのための修行であるだけではなく、他のすべての人々のためのものとなってはじめて波羅蜜といいうるのである。また、智慧は前の五つの根本となるもので、六波羅蜜は智慧波羅蜜を中心としている。智慧をさらに方便(ほうべん)(手段)、願(がん)(自発的)、力(りき)(能力)、智の四つに分かち、合計して十波羅蜜とすることもある。⇒般若(はんにゃ)                井ノ口 泰淳

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