仏教関係者が京都に集う会

仏教でいう愛って?

※以下の関連記事は、考察の資料として、日立デジタル平凡社刊世界大百科辞典より引用・転載しています。


【〈愛〉の意味・〈愛〉の言語】
愛の過不足なく普遍妥当な定義を求めることは、愛の様態の多岐性、愛の解釈の恣意性、愛の用語の混交性のために、困難というより、不可能であり、無意義である。
人類の愛の様態は、異なる自然環境と社会組織の制約のもとに形成された結果、顕著な特性をもつまでに分化している。
それらは、習俗の根強さによって、保守的な大衆を羈絆(きはん)する一方、反生物学的・非人間的なゆがみによって、自覚的な個人に対する権威を失墜しつつある。
それゆえ、愛の主体的な把握を志すものは、歴史的・民族的・文化的・宗教的な姿相の究明と並行して、これらを超えた、自己の人格と整合性をもつ愛の理念の確立に努力しなければならない。
そこで、既存の説を離れて愛の本質を考える一助に、哺乳類の生態に注目すると、意外な事実が認められる。
まず、ピグミーチンパンジーの性行動は、普通のチンパンジーとでなく、人間と酷似する。さらに、ゴリラの雌は群中の母なし子を養護するが、これについでおおらかな父親らしさを発揮するのは、他の類人猿でなくライオンである。
また、ひとくちにイヌ科と言っても、オオカミやキツネは番(つがい)となるが、犬や熊はならない。
これらの異同が、種の遠近とは別の要因に左右されているのは、雌雄・父子・集団の関係のあり方が、潜在的な可能性の一つのたまたま現れた、不安定なものでしかないことを物語る。
つまり、人間の愛には、母子の間の親密性を除けば、動物学的な水準においてすら、確固たる原型が存在しないことになる。
とはいえ、まったく次元が違うはずの、人間の愛の心理機構と、原生動物の接合や物理的・化学的な親和現象が、かえって、偶然とは思われぬ類比を示すことも、否定できない。だから、いくら愛が多様だとしても、つきつめてゆけば、恒常的な共通要素がないはずはない。

あらゆる愛の基本が、〈なにものかにひかれること〉である点に着眼すると、〈ある主体の、特定の対象にいだく、全体的または部分的な、合一の欲求〉といった、愛の概括的な定義さえ、導き出すことができる。
この一見無内容な定義が露呈させるのは、愛と食、愛と死の、根源的な相似性と相関性である。
〈合一〉とは、相互発展的な〈融合〉でもありうるが、〈対象を吸収する(食う)〉か〈対象に吸収される(食われる)〉かに偏しやすく、後者への欲求の極限は、生存の緊張から逃れるために個体を解消しようとする、〈死へのあこがれ〉にほかならない。
こうして、生命に内在する、ある単一の力が、生命過程において、食・愛・死の欲求を順次発現させることと、生物学的に見た愛の機能が、生と死の中間項としての、新たな生命の産出であることが、了解できる。
また、〈合一の欲求〉が、本来の利己性を超えて、対象の利益の顧慮から、〈自己犠牲〉にまで進むことも、強烈な〈情緒〉と〈苦楽〉をともなうことも、納得がゆく。
しかし、フロイトの説く〈リビドー〉と異なり、万有の本源から発して、全存在に遍満しなければならない、〈ある単一の力〉とは、いったいなにか。
それが、なぜ、いかにして、〈合一の欲求〉を生じさせるのか。これらの疑問に答えることは、宇宙・生命・意識の発生の理由を明らかにすることにひとしいから、とうてい、われわれの悟性と科学的認識のなしうるところではない。
以上の定義と解釈は、あくまでも、常識的な立場から、愛の骨格だけを没価値的に示そうとした、一つの試みにすぎない。
いくつかの宗教と形而上学は、これと多かれ少なかれ異なる見方で、愛の本質と原因に関する思弁を展開し、なかには、複数の愛をはっきりと区別するものもある。
代表的なものの一部を、比較のために要約すれば、つぎのごとくである。

[エロスとアガペ] 
プラトンの説く、〈エロスerヾs〉の愛は、自己に欠けたものへの欲求である点、上記の〈欲求説〉に近い。しかし、その欲求が、対象自体よりも、対象に発現する、より高い美しさ、完全さ、価値に向かい、究極は〈一者〉との合一を目ざすというのは、〈イデア説〉と同根である。プラトン個人の、〈死へのあこがれ〉が反映しているのかもしれない。
新約のキリスト教の愛は、とくに、〈アガペagap^〉というギリシア語で呼ばれる。新約の神は、愛ゆえに人間を創造した、〈愛の神〉であるが、神自身の本質も愛だとされる。〈神の人への愛〉にこたえる〈人の神への愛〉として、己を捨て〈神の愛〉に入るとき、人間は、〈愛の神の子〉として、〈人の人(隣人、敵)への愛〉をはたしうる、〈愛の人〉となる。いっさいが神すなわち〈与える愛〉を原因とするから、〈欲求〉ではなく、さきの定義は適用できないが、このような愛の観念を成立させた心理の底には、やはり、父なる絶対者への〈合一の欲求〉が潜んでいる。

[東洋における〈愛〉の語彙] 
愛に関するサンスクリット語の類義語は、仏典に現れるだけで数十に達するが、訳語が一定でないことがある反面、10以上の語を一様に〈愛〉と訳したりするので、漢訳からは原語を判別できないことが多い。
もっとも重要な原語(=サンスクリット語、=パーリ語)に、標準的な漢訳と解説を付加すると、以下のようになる。

梵巴〈カーマ k´ma〉:〈愛・愛欲〉。原義は〈欲求〉一般であるが、しばしば〈愛欲・性愛・性行為〉を指し、インドでは古来、人生の三(ないし四)大事と認められているが、仏教では、もちろん、否定されるべき〈煩悩〉とみなされる。ただし、巴〈アッタ atta‐(梵アートマ ´tma‐)・カーマ〉:〈自己愛〉が、〈自分をたいせつにすること〉として肯定されているのは、注目に値する。

〈トゥリシュナー tnol´〉、巴〈タンハー talh´〉:〈愛・渇愛〉。原義は〈渇き〉で、英語〈thirst〉、ドイツ語〈Durst〉と対応し、英語〈dry(乾いた)〉などと同源で、〈十二支縁起〉の一つとして、〈苦〉の原因とされている。際限なく増大してゆく〈欲望〉というのが、仏教の基本的な、愛の見方である。

〈プレーマン preman〉、巴〈ペーマ pema〉:〈愛・愛念・慈〉。〈愛情〉のことで、肯定も否定もされうるが、〈他人・衆人を愛すること〉と〈人々に愛されること〉とは、仏教徒としても大事であるとされた。前者を、〈慈〉と訳すこともある。

梵巴〈ラーガ r´ga〉:〈愛・愛染・貪愛〉。〈心が真赤に染まるような、激しい性愛〉のことで、仏教はその規制を説いたが、後代のタントラ的密教においては、〈男女交合〉を〈涅槃(ねはん)〉〈仏道成就〉とさえみなすようになった。

〈マイトリー maitr ̄〉、巴〈メーッター mett´〉:〈慈・慈悲〉。原義は〈ミトラ mitra(友)〉に由来する〈友情・友愛〉であるが、仏教では、とくに〈いつくしみ〉として尊重される。

梵巴〈カルナー karul´〉:〈悲・慈悲〉。原義は〈うめき〉であるとも言われ、〈(他者の苦痛をわがこととして)苦しむこと・嘆き悲しむこと〉から、〈同情・あわれみ〉を意味するようになった。仏陀の〈悲〉はとくに、〈マハー・カルナー mah´‐karul´(大悲・大慈悲)〉と呼ばれ、〈自分が、だれかに、どれだけのことをしてやる〉という、3条件を意識しない、〈無縁の大悲(無条件の大きな愛)〉だとされている。なお、〈慈悲〉の原語は、上記の2語のどちらか一つ、双方、別の語と、一定していない。


中国の〈〉には、多くの訓詁があるが、〈人間(男)であること・人間(男)らしさ〉が本義で、早い時期に、〈任(重い任務)〉〈人と人の間でもつべき態度・他者へのいたわり〉などの語感が、複合したものであろう。
家父長的な義務感を出発点とし、〈天〉の〈命〉によるという使命感に支えられ、弱者への〈惻隠の心〉とともに、一人前の人間としての責任をまっとうしうる〈能力〉をもつことが、重視された。
〈仁〉の、近きより遠きにおよぼす、現実主義的な性格にあきたらず、墨子は、〈兼愛(無私平等の愛)〉(兼愛説)を提唱したが、理想論にすぎぬとして、広く受けいれられなかった。
以上のごとく、愛の理念は、一つ一つが微妙に力点を異にしており、〈欲求説〉によって総括しようとすれば、本質を見失うものが多い。
まして、文芸・絵画・彫刻・音楽などの芸術作品は、概念の網では決してすくうことのできない、愛の具体的な真実を、感性を通して訴えかけてくるのであるから、意味の抽出を急いではならない。
そこで、現代日本語としての〈愛〉の素性に目を向けると、この語は、本来の中国的な意義と、これと相いれぬインド仏教的な意義とを担って、上代の知識階級の語彙に加わったが、中世・近世を通じてむしろ卑俗な語感をもち、明治になると近代ヨーロッパ語の〈ラブ love〉〈リーベ Liebe〉〈アムール amour〉の受皿として用いられ、〈おもい〉や〈恋〉の地位をおびやかすに至ったものである。
ところが、西洋文化の源流を伝える、古典語とくにギリシア語では、サンスクリット語の場合と同じく、愛の観念を包括する単語が存在しなかった。
英・独・仏の現代語では、愛を表現するのに、一つの名詞がとび抜けて有力になっているから、最近までの日本人は、古代のギリシア人や中世以降のヨーロッパ知識人が、異なる愛の観念を区別するために異なる単語を用いる事実に、気づかなかったのである。

[印欧語における〈愛〉の語彙] 
そこで、中国語の〈愛〉の原義と、印欧語の主要な〈愛〉を表現する名詞の素朴な意義とを、順序不同に紹介しておくことにする。
〉は、母親の幼児にいだく〈せつない愛情〉が自然な発語として定着したもので、少なくとも中古以後は、〈ai〉という二重母音が、完全に一体ではありえないが別個の存在というにはあまりにも不可分な、母子関係の緊密さを、潜在意識に感じさせていたと憶測される。
母性愛〉のあらわれであるから、〈与える愛・いつくしみ〉が本義である。
これに対して、ラテン語〈amor(イタリア語amore、フランス語 amour、スペイン語 amor)〉は、幼児が母の〈乳房〉を慕う際の発声が起源で、ラテン語〈mamma(乳房)〉、日本語〈mamma(食物)〉、日本語と朝鮮語の〈omo(母)〉と同じく、もっとも発声が容易でしかも吸着行為の口の動きと密接な、両唇音を主体としている。したがって、本来は、〈求める愛〉である。
英語〈love〉、ドイツ語〈Liebe〉などは、印欧原語〈leubh〉にさかのぼることができ、〈愛・あこがれ・親しみ〉など、広い意味をもっていた。フロイトの〈リビドー〉の原語である、ラテン語〈libido〉は、〈激しい欲望〉を本義とする、この群に属する語である。
ギリシア語〈erヾs〉は、〈性愛〉を指すのが普通であった。これに対して、ギリシア語〈philia〉は、〈philos(形容詞=親愛なる、名詞=友人)〉に由来し、〈友愛・友情〉である。しかし、〈philos〉の原義は、ホメロスが用いた〈自分自身の〉であり、リュディア語〈bilis(自分自身の)〉に代表される、アナトリア語が起源らしい。
〈自分自身の(もの)〉だから〈いとしい〉という発想は、ほかにもあり、サンスクリット語〈priya(いとしい)〉〈preman(愛)〉がその例であるが、〈priy´(いとしいもの、形容詞・女性形)〉に対応するものとして、北欧や古代高地ドイツ語の女神名〈Frigg〉〈Fr ̄ja〉があり、英語の〈Friday(金曜日)〉に名残りをとどめる。
また、〈自分自身の(からだ)〉だから、奴隷でなく〈自由〉だというのが、英語、ドイツ語〈free〉〈frei〉(自由な)の原義であり、〈自分の(側に立つ人)〉というのが、英語、ドイツ語〈friend〉〈Freund〉(友人)の本義である。
ギリシア語〈agap^(愛)〉は、動詞〈agapaヾ(好意をもつ・愛情をもつ・好む・満足する)〉から、比較的おそく造られた語で、〈性愛〉であることはまれだったので、新約の用語として採用された。
ラテン語〈caritas(愛・愛情)〉は、形容詞〈carus(イタリア語・スペイン語 caro、フランス語 cher、親愛なる)〉に由来し、ギリシア語〈agap^〉の訳語とされて、キリスト教的〈愛〉を指すようになり、さらに、〈愛〉にもとづく〈慈善〉の意をもつようになった(カリタス)。
英語〈charity〉の語源でもあるこの語が、サンスクリット語〈k´ma(欲求・愛欲)〉と同根であるらしいのは、いかに語の意味内容が移ろいやすいかということのよい見本である。         松山 俊太郎


[儒教における〈愛〉]
孔子は門人の質問に答えて、とは〈人を愛するなり〉と言っている。〈人を愛する〉仁は、〈己を正す〉義とともに儒家の強調するところとなるが、この愛は無差別の博愛ではない。
まず家族を愛し、つぎに国家、さらに国家の集合である天下へと愛情の輪をしだいに拡大してゆく。
愛は段階的に〈近きより遠くへ及ぶ〉べきものであり、なんじの敵を愛せよ、といった発想は儒教にはない。
これに対して墨子は〈兼愛〉すなわちすべての者を無差別に愛せよ、と主張した。
これは儒家の説く仁、すなわち家族や国家という共同体を本とする愛とは異質であり、むしろその否定の上に成立する人類愛である。
親疎遠近の区別を設けない、無差別の愛を、孟子は〈己の親と他人の親を区別しないのは、禽獣の愛である〉と激しく非難している。
〈兼愛〉無差別の人類愛は、中国にはなじまないのか、あるいは墨子のように宗教の裏づけがあって初めて可能なのか、秦漢帝国の成立とともに急速に衰滅してしまった。             日原 利国


[漢訳仏典における〈愛〉]
漢訳仏典には、大別して煩悩の汚れをおびた愛と煩悩の汚れをおびない愛の2種がある。
前者は、恩愛、渇愛、貪愛、欲愛、愛着などと熟して用いられて、もっぱら煩悩の側面を表し、十二因縁の一つたる愛もこの意味である。
したがって、仏典においては、そのような盲目的執着をなくせ、と説いている。
後者は、法愛、愛楽(あいぎよう)、慈愛、また愛語などと熟して用いられるもので、このような意味での愛は、仏教語としては、むしろ〈慈悲〉の語で適切に言い表されることが多い。
したがって、中国仏教の展開にあたっても、〈愛〉をしりぞけ〈慈悲〉をすすめるのが一般であった。
たとえば《弘明集(ぐみようしゆう)》に収められている釈玄光の〈弁惑論〉には、ゆらい人間は色塵には染まりやすく、愛結(ぼんのう)は消しがたいものであるとあり、劉詠(りゆうきよう)の〈滅惑論〉には、妻は愛累(貪愛のわずらい)であり、愛累は神(こころ)を傷つけるから愛を滅さねばならぬ、と説いている。          礪波 護


【日本語における〈〉】

[〈愛〉は外来語]
歴史的に〈愛〉は日本語本来のことばではなく、中国から輸入された、いわゆる漢語である。
この事実は、日本語が、もともと、〈愛〉とか〈愛す〉という語を、ことばとして所有していなかったことを物語っている。
〈愛〉あるいは〈愛す〉という気持ちを表現する必要があれば、古くは、和語に依存して、名詞〈おもひ〉、動詞〈おもふ〉を用いたこと、たとえば〈にくむ〉の反対語として動詞〈おもふ〉をあげた《枕草子》第71段の記事によってもうかがうことができよう。
《枕草子》と並んで、《源氏物語》にも、〈愛〉〈愛す〉の語は1例も使用されていない。
このように平安女流文学においては、〈愛〉〈愛す〉が使用されていないのに対して、平安末期の仏教説話集《今昔物語集》では、これらの語が頻用されている。しかし、この現象は、必ずしも時代の新古のみによるものとは考えられない。
院政時代の古訓集成とも称すべき《類聚名義抄》に、〈寵〉〈恩〉〈恵〉〈寛〉等々の漢字をアイスという語で読むことが示されている以上、漢文訓読の世界では、相当はやくより〈愛す〉という語が普及していたことを推測させる。

仏教思想と〈愛〉 

さかのぼって、《万葉集》巻五、山上憶良〈思子等歌一首〉の前に置かれている〈釈梼如来、金口正説、等思衆生、如羅順羅。又説、愛無過子、至極大聖、尚有愛子之心、況乎世間蒼生、誰不愛子乎〉という漢文の序も、〈愛は子に過ぎたりといふこと無し。至極の大聖すらに、なほし子を愛する心有り。況んや世間の蒼生、誰か子を愛せざらめや〉というふうに、当初から、〈愛〉を字音語のまま読んでいた可能性が強い。
憶良の〈思子等歌〉は子に対する愛を切々と訴えた名歌として知られている。〈瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ〉。
しかし、憶良は、このような絶ちがたい子への愛が、釈梼の戒めた煩悩にほかならないことを十分に知っていた。
仏教の知識を踏まえて述作された漢文の序は、その線に沿って、〈愛執は子に勝るものはなく〉〈無上の聖人でさえ、子に愛着する心はある。まして、凡人たるもの、子に愛着せずにいられようか〉という意であったと解される。
 儒教における〈愛〉は〈ネンゴロニシタシム心〉(《和漢新斤下学集》)であったが、仏教において、〈愛〉は〈十二因縁〉の一つであり、因果応報の理をまぬかれない。〈愛〉にもとづく後世の悪報は、《今昔物語集》の説話の随所に力説されている。
あるいは、わが子を昏愛した罪のために馬身と生まれた親。あるいは、庭前の橘を愛した罪によって小蛇の身を受けた男など。
《今昔物語集》がとりあげた〈愛〉は、以上のごとき仏教的見地から見た悪念としての〈愛〉であるが、この考え方は、仏教色の濃厚な中世文学の全般を覆っている。たとえば、〈法華を行ふ人は皆 忍辱鎧を身に着つつ 露の命を愛せずて 蓮の上にのぼるべし〉(《梁塵秘抄》)。
仏教思想による〈愛〉は、男女間においては愛欲、そのもっともいまわしい形態は性愛であると考える。
動詞の〈愛す〉も、したがって、中世以降、しばしば性愛の行為をさして使用される場合があった。
〈愛〉は、単なる心理ではなく、肉体の生理と直結していたのである。
このような用法が普及するに及んでは、〈愛〉という語に神聖な意味・感情を与えることは、きわめて困難となる。室町末期、キリシタンの宣教師が、キリスト教の〈愛〉を説こうとして、本邦の〈愛〉という語を採用しなかった理由はこの点に求められる。
彼らは、伝道の便宜上、仏教的な漢語を意識的に多量に導入したが、〈愛〉の語だけは忌避した。
彼らは、日本にあって好ましからざる意味を持つ〈愛〉の語を避け〈大切〉〈御大切〉という語を代りに使用した。
キリスト教における〈愛〉の概念が、漢語〈愛〉によって示されるようになったのは、明治初年以後のことである。

[《近代日本に於ける”愛”の虚偽》] 
しかし、日本人の精神構造のなかには、元来、キリスト教におけるような、神と人との間の、また、人と人との間の対等の〈愛〉を理解しうる地盤がない。
近代の日本人は、なまじ、キリスト教を通じてヨーロッパ系の〈愛〉を輸入したために、われわれの内部に定着しうべくもない〈愛〉の実在を錯覚してしまった。
《近代日本に於ける”愛”の虚偽》と題する論文を書いた伊藤整が、〈心的習慣としての他者への愛の働きかけのない日本で、それが愛という言葉で表現されるとき、そこには、殆んど間違いなしに虚偽が生まれる〉〈男女の結びつきを翻訳語の〈愛〉で考える習慣が日本の知識階級の間に出来てから、いかに多くの女性が、そのために絶望を感じなければならなかったろう〉と慨嘆したのは、まさにその意味においてであった。     佐竹 昭広


【心理学・精神医学における〈愛〉】
愛とは、自分にとって価値のある対象を慕い、いつくしみ、またはそれに引きつけられていく精神的過程と考えることもできよう。
対象の種類により、隣人愛、友愛、人類愛、祖国愛、真理への愛、神への愛など、さまざまの愛がなりたちうるが、その基本は異性間の愛情にあると思われる。
ただし、S. フロイトによると、この〈異性愛〉もはじめからそういうものとして成立するのではなく、幼児が自分の指を吸う行為などにみられるように、まず自分自身の身体を対象とする〈自体愛(オートエロティズム)〉として芽生えたのち、自己という存在全体にむけられて〈自己愛〉へとすすむ。
水面に映った自分の姿にあこがれ、水に落ちておぼれ死ぬギリシア神話の美少年ナルキッソスの場合がこれで、その名にちなみ、〈ナルシシズム〉とも呼ばれるが、成長後も、ある種の神経症や精神病では、退行してこの状態を再現することがある。
ふつうは自他の分離の完成とともに、自分以外の他者が愛の対象として選ばれるようになるが、その場合でも〈同性愛〉の段階をへて初めて〈異性愛〉という最終的な愛の様態に到達する。
とはいえ、精神分析では、愛の基底に性衝動(リビドー)の発達過程を想定しており、したがって〈愛〉というより〈性愛(セクシュアリティ)〉と呼ぶのがふさわしく、こうした考え方に対して、フロイトは〈愛〉のなかに性欲の二次的上部構造しか見ていないという M. シェーラーの批判や、彼の自然科学的・機械論的体系が〈愛〉をはじめから奇形化してしまったというM. ボスの反論などもある。
シェーラーやボスをふくめて〈愛〉を人間と人間の人格的な関係とみるのが現象学派や人間学派で、たとえば実存分析の V. E. フランクルによると、〈愛する〉とは、交換可能で無名(アノニム)な対象でなく、〈汝〉と呼べる相手の価値をその一回性と独自性において肯定することを指し、その意味で〈愛は盲目〉などでありえない。
こうした〈我〉と〈汝〉を結ぶ愛の両数的様態は L. ビンスワンガーでも強調され、すなわちこの様態のなかで〈我〉と〈汝〉はともにみずからの豊かな可能性を実現するだけでなく、世界の無限性と永遠性に参与すると説かれる。
〈愛〉がその本質として超越的契機を含むことは明らかで、この点は〈具体的なものを通して絶対者と全体者に向かう運動〉という K. ヤスパースの〈愛〉の規定にもうかがえる。
こうした〈愛〉の可能性が自己中心的なせばまりや孤立の不安によって隠戴されるようになると、そこにさまざまな〈性〉の障害が現れてくる。
同性愛、サディズム、マゾヒズム、露出症、フェティシズム、のぞきなどの〈性倒錯〉がそれで、これらは〈性〉の衝動性の次元に還元すべき性質のものではない。
ただし、〈愛〉の原理が近代資本主義社会の根底にある交換や消費の原理と両立しにくいことも確かで、新フロイト派の E. フロムは現代社会ではその矛盾を象徴するような〈愛〉の病理がすでに進行しつつあると警告している。  宮本 忠雄

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