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会長:開会の挨拶
米国のイラクへの攻撃、このニュースを聞くたびに胸が締め付けられる思いがすると前置き、国連安保理の総意を無視した米国の姿勢に、するどく批判をされた。
自衛権があっても、国連の総意を踏まえなければならない。今回の米国の姿勢はかつての日本が国連にて国連日本代表の松岡洋右(外交官、当時政友会代議士)が机を叩いて会議場を出て行ったことを思い起こさせ、非常に残念なことである。
我々仏教徒は共に許し合い、共に支え合うという基本精神を大いに布教していかなければならないと痛切に感じたと会場の皆に訴えられた。 |
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| 第9回三宝の集い 支援金授与式 |
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| 森会長から、ミャンマーの医療を支援する会の内藤眞氏と畠山師に第9回三宝の集いで得た支援金が手渡された。 |
畠山 昭彦先生
思い起こせば昨年の2月に当会の家田事務局長の所属する金戒光明寺主催のミャンマー旅行に参加したことからの不思議なご縁で、たくさんの淨財を頂くことになったと経緯をお話され、また、今頂いた淨財を、昨年の10月末にすでに自分たちが立替て、ヤデナさんに手渡したことをお話された。このことは、バトンタッチをする新潟大学医学部の内藤眞先生(ミャンマーの医療を支援する会代表)に詳しくお話願う、とお礼の挨拶をされた。 |
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ミャンマーの医療を支援する会代表
新潟大学大学院医歯学総合研究科
細胞機能講座分子細胞病理学分野 内藤眞先生
思えばこのページを充実させるために私(筆者・サイト管理人)がヤデナ医師をネット検索したことに始まる。
ヤデナさんの論文が掲載されていたと思われる(その時には削除されていた)新潟大学大学院医歯学総合研究科
細胞機能講座分子細胞病理学分野という恐ろしく長い名称のサイトにその存在を問い合わせた。その返事を頂いたのがその研究室の教授、ヤデナさんの恩師であるとことろの内藤眞先生だった。依頼、私と内藤教授とのの間で、充実したメールのやり取りがあり、ついにはミャンマーの医療を支援する会の創立とサイトの制作まで関わらせていただくことになる――。
そんな秘話も講演の最初に紹介していただいた。 |
内藤先生持参のノートPCを奥様の文子氏が操作。最新鋭のプロジェクターを使いミャンマーの医療事情をグラフや写真を使い詳しく説明。その後ミャンマーでの国賓待遇での授与式の報告。
現地での先行授与式となった経緯として、やはり現場の医療には一刻も早く支援金が必要とされており、ヤデナさんに支援金が頂けると伝えると、即刻医療機器を発注されたとか。「他の支援とは違い、一刻も早く支援をすることが大勢の人々の命を救うことに直接繋がったことを説明し、今、手渡された支援金の使途報告ができることになっている。」と説明されると、場内から納得の笑い声が聞こえた。
轄l古堂書店刊 ミクロスコピアに寄稿された報告記事「黄金のパゴダ その光と陰」にまとめられたパンフ仕立ての記事を開会前に出席者全員に配り、お話を始められた。その内容は後述。 |
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左の写真は、ミャンマーの保健省から仏教クラブに対して贈られた「感謝状」を手にする、森会長(正面)。
左から、ミャンマーの医療を支援する会の畠山洋子氏、畠山昭彦相談役、森仏教クラブ会長、内藤眞代表、内藤文子氏。
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黄金のパゴダ その光と陰
轄l古堂書店 刊 ミクロスコピア 寄稿記事の原稿より
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新潟大学大学院医歯学総合研究科
細胞機能講座分子細胞病理学分野
内藤 眞 |
(前文)
ミャンマーのヤデナ・キャウ (Dr. Yadanar Kyaw)
医師は自分の給料まで提供して病気と貧困との闘いを続けている。悪戦苦闘する彼女に留学先である日本から支援の手がさしのべられた。ヤンゴンを訪れた筆者が垣間見たミャンマーの驚くべき実態とは。
プロローグ
ヤデナ・キャウ医師は1995年から1999年まで新潟大学医学部第二内科の大学院生として留学した。研究は私が担当することになった。彼女は大変に信心深く、やさしく、周りの人をなごませ、引き込む魅力に溢れた人であった。彼女の帰国後、津川町新善光寺の住職畠山さんがミャンマーを訪れ、彼女に会っておられることを知った。彼女は在日中に多くの友人と支援者を得ていたのである。
たまたま私は厚生省の国際医療協力事業の一員となり、2000年、2001年と彼女の勤務するヤンゴン大学(総合病院)を訪問した。病理には免疫染色の試薬を持参し、技術指導を行った。内科には本学第二内科から頂いた中古の気管支鏡を届けた。それらの物資、機器は大事に使われ、最大限の効果を上げている。しかし、試薬が切れたり機器が故障したりするとミャンマーでは対応できない。
厚生省のプロジェクトは今春打ち切りになってしまい、今後どうしたらよいか思案していた。さらに、ヤデナ医師が最近ヤンゴン大学から郊外の病院に転出し、そこで呼吸器内科を開設することになったが、機器も人もなく途方に暮れているとの悲鳴に近い連絡があった。私もこれには何もしてあげられないでいた。
私は今年6月にマクロファージ国際シンポジウムを開催し、その残務整理をしていた。7月中旬、突然仏教クラブ(京都市)から彼女のために医療活動支援をするとの連絡がきた。これは畠山住職の働きかけで実現したことであった。驚いたが、これで私も支援を続けることを決意し、寄付の受け皿として「ミャンマーの医療を支援する会」を設立した。支援金を送るにも銀行送金などできない国である。われわれが手渡しするしかない。畠山ご夫妻と一緒にヤンゴンを訪れることとなった。ヤデナ医師の喜びはたとえようもなかった。まさに地獄で仏である。彼女はわれわれが行く前に薬品(抗結核剤)と必須の医療機器を手配し、この支援をミャンマー保健省に届けて公式行事としてわれわれを迎えた。
ヤンゴンへ
2002年10月28日午前10時45分発タイ航空に搭乗。バンコク経由で午後7時過ぎ、暗いヤンゴン空港に到着(時差2時間半)。通関にどの位かかるかと思っていると、ヤデナ医師が税関の係員と一緒に迎えてくれて強制両替(ミャンマーでは入国時200ドルを軍票みたいな通貨に変えさせられる)もフリーパス。国賓扱いだ。外は蒸し暑く、すごいスコールで雷も轟く。車に乗り込むと豪雨のため、ワイパーが間に合わない。水たまりを走ると水しぶきで見えなくなる。灯もなく、反射板だけが頼りの道をひたすら中心街へ走る。セドナホテルにチェックインしたころには雨もあがった。中華料理店へ案内され、ミャンマービールが美味しかった。ヤデナ医師とご主人の嬉しそうな顔を見て、来て良かったと思った。ご主人も海運会社の社医として9月から再就職した。日本で生まれたヨーちゃんも7歳となり手が離れ、主夫業(彼は政府の命令をきかずにヤデナ医師と日本留学したため、医師免許がしばらく剥奪され、数年以上家庭内のことをやっていた)が軽減したところである。
サンピュア病院
翌朝、ヤデナ医師の家に江部達夫先生寄贈のコンピュータなど土産を届けてから、サンピュア病院へ。
ホテルから20分ほどである。彼女の部屋には明日の贈呈式に間に合わせるため、医療器材、薬剤が購入してあった。「仏教クラブ寄贈。2002.10.30」のシールが大きく貼ってある。
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| サンピュア病院 |
(図1:ヤデナ医師の隣は酸素吸入器。青色の大きな字で仏教クラブからの寄贈品と書いたシールが貼ってある)。 |
病棟を見学した。内科は入院患者であふれていた。本当に大部屋で、病棟全部がつながっている。
通路の部分にもベッドがあり、一部は木製である。奥に行こうとすると、「そちらは結核患者がいるから行かないで」とヤデナ医師。何と結核病棟も大部屋の中に区別なく混在しているのである。
これは怖い。こちらでは貧しいため薬が買えず、服用を中断する患者が多い。
そのため薬剤抵抗性結核菌が発生してしまう。彼女は自分のお金をだしてまでそのような患者を助けようとするのだが、焼け石に水である。このことを訴えたことが今回の支援に結びついたのである。しかし、これは人助けだけではない。
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| (図3:内科病棟。暗い大部屋に多数の入院患者。結核患者も一角にまとめられており、危険極まりない) |
(図2:がらんとした病棟。ベッドは他の科に使われていて、ヤデナ医師の担当分はない) |
薬剤抵抗性結核菌の発生を防ぐことはひいてはわれわれのためになることである。
一方、ヤデナ医師の呼吸器内科は新設科でベッドすらない。
案内されたヤデナ医師の病棟となるべき混合病棟にはベッドが少ししかなく、看護婦は1人だけ。当然入院患者をとれないので、外来と他科の依頼患者を診ている。
病院は必要なものは患者から金を取るなりして何とかせよという態度である。人事は保健省が決める。
副大臣は呼吸器内科医であり、かつヤデナ医師を日本に留学させた人である。
彼がこんな人事を決めた裏には、何もないところでも彼女なら何とかするという読みと期待があったことはおそらく間違いない。
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ミャンマーの状況を端的示すのは電力である。室内灯はついていないどころか、廊下の電灯はとりはずしてある。節電も徹底するとこうなるのか。
夜も最低限しか点灯しないから、病院はお化け屋敷同然である。
町の中も街灯が少なく、空港ではタラップしか照明がなかったし、夜の暗さはミャンマーの特徴でもある。
病院では毎日消費電力がチェックされ、政府に報告する義務がある。
電力事情がなせる業である。
一方、黄金のパゴダは夜も照明がついている。仏教の影響力が強いことがわかるし、政府も仏教界に配慮しているのであろう。
(左、写真4:節電のため、取り外された蛍光灯。夜はまったく暗闇)
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贈呈式
午後3時から寄付に対する記念式典が行われた。大きな会議室の演壇の緑色のカーテン上に白いアルファベット(切り抜いて作った文字)が貼り付けてあった。手間をかけていることは良く分かった。
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「日本の仏教クラブからサンピュア病院呼吸器内科への寄付の贈呈式」とある。壇上には酸素吸入器、血圧計など2,3の機器と薬剤の箱がきれいに並べてあり、よく映えていた。病院の職員だけでなく、市内の病院の院長や大学の教授も参列していた。
式が始まった。
開会宣言に続いて私の挨拶。「ヤデナ医師が新潟に留学したときからのつながりで新潟に多くの友人、支援者ができた。仏教クラブは仏教国における平和的、建設的プロジェクトに対し毎年支援しているが、畠山ご夫妻のお世話で今回ヤデナ医師の診療のために100万円の寄付をすることになった。このお金がミャンマーの人たちのためにもっとも有効に使われることを希望する」と述べた。続いて畠山師が100万円(8000ドル)と書いた箱と目録を院長へ手渡し、逆に保健大臣の署名の入った感謝状をもらった。 |
| (写真5: 感謝状を受け取る畠山師) |
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保健省の役人と院長から感謝の言葉が述べられ、次いでヤデナ医師の感謝の言葉があった。20分ほどで式は終了。院長室で懇親会があった。この病院の印象を聞かれたので、「支援する価値のある病院だ」と応えたら院長から有り難うと言われた。院長は別れに私の手を強く握りしめた。
帰国
ホテルに戻り、大急ぎで荷物の整理をした。空港では送迎者は中に入れない。ガラス越しに別れを告げた。帰国便は午後8時過ぎに出発。バンコクで深夜の便に乗り換え、成田に向かった。
帰国後ヤデナ医師からメールがきた。「本当にありがとうございました。こちらも丁度3連休です。どうぞゆっくりお休みになって、ミャンマービールを楽しんで下さい」。ミャンマービール(缶)は6本もらってきた。あちらと20度以上の温度差がある新潟だが、きっと美味しいだろう。
エピローグ
ミャンマーは宝石の特産地である。国営企業がルビー、サファイヤ、ヒスイ、ダイヤモンドなどの採掘を行い、宝石はミャンマーにとって重要な外貨獲得資源(年1千万ドル以上)となってきた。ヤンゴンでは観光客用の宝石店が立ち並び、宝石がまばゆい光を放っている。
ヤデナというのはミャンマー語で「宝石」という意味である。彼女こそミャンマーの宝である。日本語と英語が堪能で海外でも活躍できるが、自国に留まり必死の努力を続けている。本当は宝石よりも彼女のような人材を多く発掘し、活躍の場を広げることのほうがミャンマーにとって大事なことであろう。そうすればこの国はもっと輝くようになるだろう。黄金に輝くパゴダと鮮やかな宝石、そして漆黒の夜と厳しい医療状況にこの国の光と陰を見る思いである。
■なおこの内容は、ミャンマーの医療を支援する会のサイト内にもあるので、ぜひご覧頂きたい。
Photo by Makoto Naito
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内藤先生の話を終えた後、ミャンマーの保健省から仏教クラブへ託された感謝状が森会長に手渡され、会場の皆から拍手があった。(写真)
その後、塩竃義弘会員が、「ミャンマーの医療を支援する会は真の意味ではこれからだ、ぜひしっかり引き続いて支援の輪を広げてほしい、また必要あれば仏教クラブも支援したい」と延べ、支援する会の前途と仏教クラブの発展を祈って乾杯の発声をされた。
仏教クラブとのご縁で創立されたミャンマーの医療を支援する会、今後もますます発展されんことを祈念したい――。
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