|
いつでしたか、赤ん坊の泣き声の意味を教えてく
れる辞書はないものかと叫んだ人があると聞いた事があります。
赤ん坊は、いつも同じ声で泣いているよ
うでも、きっと、何かを要求しているに違いありません。
母親以外には、さっぱりわかりませんが、母親
というものは、よく我が子の泣き声を知っています。
赤ん彷が泣いている。あれはお腹がすいたのである。あれは淋しいのである。
裾が汚れているから替えて欲しい。寝るのは飽きたから抱いて欲しい等、母はよくこれを理解し、聞きわけて始末をしてくれます。
今、赤ん坊が奥の間で泣いている。
母は台所で洗濯か炊事をしている。
「あら、目が醒めたの」
お乳が欲しいのであろうと濡れた手先ををエプロンで一寸拭いて飛
びたって奥の間に行く。
婦人のエプロンというものは重宝な物で服の汚れも防ぐ。
汗が出たら顔を拭くハ ンカチの代理もする。
一寸、物を包む風呂敷代わりもする。手を拭くタオルの役目もする。時には飯台が濡
れていると、一寸拭く布巾のつとめもする。
いたって 重宝なものでありますが、このお母さん、濡れた手先を一寸拭いて「坊や、お目々が覚めたの。おいで。お
いで。」
早くおいいでと云いいつつ、自分で走り寄って行く
。
おいで、おいでと坊やを呼びつつ、自分が行くのは甚だしい矛盾ではないか。
おいでおいで。と呼ぶからには、坊やの来るのを、じっと待っているのかと思
うと、そうではなくて、坊や、おいでおいでと呼びつつ、自分が行く。
来いと云う人が、その人を行かせずにはおかぬのである。
此処に母の慈愛が溢れているのです。
お母さんに、おいで、おいでと 呼ばれても坊やには行ける筈がないのです。
よしんば、行きたいと云う気はあっても、布団に包まれ、帯でしめられていては、身動きが出来ない程で、母に来て、抱き取って貰う外はないのです。
善導大師さまは「本願を捨てずして来て大悲に応える」と、阿弥陀如来のお心持ちを教えられました。
よその神仏は、人々が善根功徳を積んで歩いて行くのを待って居られるのに、阿弥陀仏だけは、来いよ、来
いよと呼びつつ来て、抱き取って下さるのです。
奥の間の坊やの側に飛んで行った母親は坊やに、お行儀良くしなさい、とも云わずに、いきなり抱き取って乳をふくませ乍ら、ついでに顔の汚れも拭き取ってやる。
不足も云わずに、かえって詫びる心持ちで、「坊
や、早くおいで。お母さんが悪かった。一人で淋し
かったでしょう。お母さんが来たからもう泣くんではないよ。泣かなくてもよい。お腹が空いたか。裾が汚
れたか。よしよし、今、お母さんが、よくしてあげるから」と。
優しく母に抱かれて頬擦りされた彷やは、
何と思うでありましょう。ただ、満足した嬉しさに、
母の顔を見上げて、にこにこしている事でしょう。
母 もまた、坊やの顔を見おろして、にこにこしている。
この見あげる眼と見おろす眼とが一致した時に、恩愛(おんない)の情はまさに高調に達して感きわまり、さの美しさ
は天下何物にも、たとえられないものであります。
本山の茶室の横に筍が二本、三本、にょきにょき
と顔を出している。
この筍を眺めていると、苦しい人生が煩脳の炎の燃えくるう、真っ只中のような暗い土の中をやっと抜け出て、仏様のお慈悲の光りを求めて
顔を出す。
朝露に濡れてキラリと光る筍を見た時、人間の涙のような気がして、いとおしさで一杯になる。
目に見えぬ不思議の力に助けられ、仏さまの仰せにかない、思し召しに従ごう身になりたいもの――。
|