|
拝啓 2月にインドへ行ってから、桜が咲き、牡丹が咲いて、今は凌霄花(のうぜんかずら)のオレンジ色が華やかに咲き乱れています。本当に月日の過つのは早いものです。
また「風のたわごと」をお送りさせて頂きます。
勝手に書いて勝手にお送りしている文ですので、お読み棄て下さい。今回は現代の僧侶に対して期待することが大ですので、お坊さんには少々お耳さわりになるかも知れませんが、お気を悪くなさらないで下さい。
大正11年2月に陽明学者の安岡正篤(まさひろ)先生が24歳の時に書かれた文で「方外の交わり」の中から抜粋参考させて頂きました。
風のたわごと 第3回
私の生業は神仏に関する絵付け全般をさせて頂いています。神仏は姿形が見えません。その見えない形を具現して、そこに絵や文様を表現いたします。
通常、人々は見えるものに対して代価を支払います。
見えないものに尊厳なる価値を見出し、三宝に布施をする宗教の教説は、よほど気を引締め戒めて行うことが重要と考えます。
今日、全国に分布する寺院は7万8千ヶ寺ほど存在していると思われます。どの村落にも小学校とともに必ず寺院が存在します。おしなべて1ヶ寺について人口7〜8百くらいにあたる筈です。この寺院に住持している僧侶と在家の人々との間にどれだけの精神的交渉がもたれているでしょうか?西洋の教会に較べて日本の寺院はあまりに無為無能です。私たちの先人の多くは皆出家沙門を礼敬し、その風格、生活を慕い懐かしんできました。
出家とは在来一切の所有を棄て、乾坤(ケンコン・天地)無住にして、三衣一鉢に飄々と遊行する大自在底の行者を言います。この行者の心は大海の如く一切衆生を包容することが本質であります。
これに反して在家の衆生は形骸化された社会常識の枠の中での生活をいています。
すなわち世俗的功利の利害的打算や功名富貴生活を第一義としています。
出家沙門は第一義諦に一切の矛盾相対を絶する円融無碍(エンユウムゲ・一切の存在に於けるそれぞれは個性を発揮しつつ、相互に融和し、完全円満な世界を形成し、とらわれがなく自由自在であること)の涅槃の風光を開展して、無の境地たる絶対自由を徴表する頂天立地大自在三昧でなけねばなりません。
僧侶の住する寺院は人間権勢の縁、世俗的功利から離れた清浄な壺中(コチュウ・後漢の費長房の故事で、彼が汝南の市の役人になっていた頃、市中の薬売りの老人が薬を売り終わると壺の中に入って行くので、頼んで老人と壺の中に入ると、立派な御殿があり、上手い酒と魚がいっぱいなので2人で飲み明かしたという話。
俗世を忘れる快楽。仙境の別天地)の天地であるべきであって、自由の聖地として一切の権勢を拒否した真理希求の場であると思います。
これからの寺院は、世俗に於ける信仰の価値観の相違からの変化に対応しざるを得ません。本物の宗教人的行者たるべき出家沙門のみが真に顕現されます。
なるほど仏教のことは随分盛んに研究されています。しかしそれは主として考証的意義に於ける仏典の研究か、千篇一律な先人妙悟の事蹟を羅列した禅語集などであり、果たしてどれだけよく人の心に温かい光を与えているだろうか?真実の感激を得て教化されているだろうか?世俗と何ら変らない生活をする僧家の多きに、なんらの感動感激も起こり得ない。今日全国無数の寺院は果たして何の為に存しているのか、僧侶は何によって生活し、何をなしつつあるのか。
明治政府の行った廃仏棄釈政策とともに仏教の命脈を絶つために僧侶の妻帯を認めた事も、現在の僧侶の生活のあり方が俗人と何ら変らない事になっている原因の一つです。出家とは、まさしく家を出ると書き無住無私であり、欲望的執着心から離れたものをいいます。出家が妻帯することは世界の仏教国の中で日本だけの風習であり、妻帯して子供ができれば、我が子が一番可愛く、執着する事は人間として当たり前の事であります。
妻帯が政府から認知されたために、自坊を子供に譲ることが当前の如くになっています。その子たちは寺を継ぐことを、ビジネスと割り切り、修業する事も寺を継ぐまでのガマンであると思っている。この修行僧たちの未来を案じます。
また寺院のこれからも案じこれからは寺院の維持や荘厳に価値を見出す前に、目の前の物質に価値を見出す世俗の人々が多くなると思います。
化学が神の領域まで入り込み、不可思議の世界が現実化して行く中で、どこまで見えないものに対して価値を感じることが出来るのか?寺院の荘厳絵付けを生業とする宮絵師にとって、このことは非常に重要な意味を持ちます。
畢竟、深く僧に期待することが大きく、沙門の人格の体現によってこれからの生業が左右されますので、礼敬すべき風韵を有す僧家を希求します。
東洋哲学には儒家・道家・佛家があり、各「心」について教説しています。
儒家は心の徳目を重視する「仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌、恕、謙、」の至誠観に於ける人間教育。道家(老子)の「無為自然」また釈尊の「空」の思想があります。
機械化学情報技術産業の限りない発達は、「心」を置き去りにして、この地球をどのように変革していくというのか?
紀元前430頃にできた書で『大学』という四書(大学・中庸・論語・孟子)の中から一番に置かれている全文1750余文字の短い論書があります。
「大学の道は、天下の指導者となるべき人々の最高の学問であり、その究極の目的は天性の明徳を発揮せしめ、その理を明らかになす。
人々の心を刷新して、善の極致である窮理の世界を構築することであり、この目的を明確に認識してこそ、志が定まり何事にも心惑わされず、心安らかに深い考察が可能となる。凡そ物事には必ず本末、終始があり、何を先にして何を後にするか、正しく段階を追って真理に到達することを学ぶ」とあり、この「明明徳」「新民」「止於至善」(明徳を明らかにし、民を新たにし、善に至り止まることにある)を『大学の三綱領』と呼び、学問の大原則となり究極の目的であります。
この目的に到達するための順序として、八条目が書かれています。
この八条目は近代中国の父といわれた孫文が世界に誇るべき政治哲学の宝であり、政治の根本であると述べています。
「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」の八条目です。
事物に格ってのち知が至り、理知を至高に達しめることにより意が起こり、誠の意志となる。この誠意に基づいて心が正しくなる。
心が正しくなると身が修まる。
身が修まると家が斉う。家が斉うと国が治まる。
国が治まると天下は平らかになり、平和になる。万民全て身を修めることが根本であります。
表面上は出家と相容れなかった儒家の思想も、今日は仏教のなかに具現されています。現世を如何に徳目を修めて生きるか、の儒家と死生観を重視する釈尊の教説は両立しないところがありますが、人格を高め悠久静閑な智慧の光の中に住むところは同じです。
今の世はあまりにそわそわと眩しい。
せめて出家だけでも悠然と優游と構えてほしいと思います。
『方外の交わり』という言葉があり、「方外」とは世俗の外、昔に僧侶、医師、画工など、俗人以外と見なされた者の境遇であり、自分だけの世界観を持っている者との交わりをいいます。
ゲーテの言う、星斗の輝く空を仰いでも何らの感激を覚えない人間はもはや堕落しきった人間である。とのこともあり、満天の中の星一つ、地球外から観た星屑の地球。
小さな国の小さな人間です。
どんなに機械文明情報技術が発達しても、目に見えない『心』を大切に重視して生きていきたいものです。
合掌
|