仏教関係者が京都に集う会

平成15年(2003年)8月例会報告

ゲストスピーチ「演劇『再会』さよなら記念公演を前に」 IMAGIN21主宰俳優・渡辺 義治さん

開催日:2003年08月22日 / 8月 (地蔵盆)例会 
 
先月の例会は、総勢35名で、山口県仙崎に強行軍での『金子みすゞへの旅』に出かけ、九州を襲った集中豪雨の余波というおまけまで体験して、楽しく過ごしてまいりました。
 
今日は、ゲストスピーチに渡辺 義治先生を東京からお迎えし、お話を伺います。
渡辺さんは、この秋京都でご自身の作演出よるお芝居『再会』の上演の準備をすすめられております。
初演以来10年まさにライフワークとして、このお芝居の公演に取り組んでこられました。
戦争の悲劇が風化しつつある昨今、今一度考えてみたいと存じます。

森会長開会の挨拶

kaicho-aisatsu地蔵盆の季節ですが今朝のある新聞のコラムにあった文章を紹介します。「おじぞうさんのお顔をつくづく見ていると、笑うでもなく笑わぬでもなく、細めで私の顔を見ておられる。貴公も大いに自嘲されよと言っておられるようである。」
京都には5000体のお地蔵様がおまつりされていますが、我々の子供の頃は、のど自慢有り、紙芝居有り、カキ氷有り、いつもセカセカと急がしそうにしてはるおじさんが、スイカを切ってくれたりと本当に楽しい行事でありました。
 
近頃は、子供の犯す事件があちこちで頻発しております。お地蔵様は子供たちとその地域を守る仏様です。今こそそういった礎(いしずえ)が必要ではないかとつくづく思います。と、挨拶され、今日のゲストスピーカーの渡辺氏を紹介された。

演劇 再会 さよなら記念公演を前に

IMAGIN21主宰・俳優・渡辺義治さん

渡辺義治 Watanabe Yoshiji

渡辺義治
Watanabe Yoshiji

一九九一年、七月六日、長野県泰阜(やすおか)村ではじめて中国残留婦人の皆様にお逢いした私のあの日の感動と、うろたえを一生忘れることは出来ません。
 
そして私の人生を変えようとはあの時、想像もしていなかったのです。
 
…あの日、残留婦人の皆様は、元気な声で身振り手振りを交え、戦火の逃避行の話をしてくれました。
時には笑い、時には涙をぬぐいもせず話の途中に何回も「漬物食べてください」「お茶を飲んでください」と私に気を使っていただいて…。
皆さんの仏様の様にやさしい笑顔に包まれているうちに私は心えぐられ返す言葉も失っていました。
 
あんなに苦しまれたのに、どうしてこんなに笑顔がすてきなのだろう…ああもっとこの方達の事を知りたい、また私は何を残留婦人の方に求めてここに来たのか、それを見つめなくてはいけない…。
まるで昨日の事のように話される皆さんを前に、あるうしろめたさをかかえたまま、村を出ました。
私の父は昭和9年「満州国軍」の将校として渡「満」しました。
現地での任務は中国の抗日ゲリラの鎮圧(弾圧)のようでした。
昭和十三年、母と結婚し、翌年兄が誕生、その後ノモンハン事件後に退任し「満州国」の官吏になり昭和二十年再び今度は関東軍の将校として召集を受け、日本人の運命を左右したあのソ連参戦の八月九日を迎えたのです。
父は鉄道部隊の中尉としていち早く情報を知り(天皇家の御親戚の皆様はなんとこの一ヶ月以前には日本へ引き揚げていたようです)
日本の居留民を置き去りにしたまま自分達家族、関東軍家族を乗せた列車が通過した線路や橋を次々と爆破しながら、いち早く日本に帰国していたのです。
(村を出てからはじめて詳しく兄にその時の様子を聞きました。なんと九月二日には、山口県仙崎港に着いていたのです)。
 
奥地にとり残され、ソ連参戦も知らされなかった開拓団の方々のその後の運命(実際は運命ではなく、国と軍が同朋を捨てたのです)も想像できるというものです。
 
私の父はよく戦後、急にガバッと飛び起き、鬼のように目をらんらんと光らせていました。
また、父と母との諍から、父は母の髪の毛をつかみ引きずり廻し自暴自棄になっていました。
まさに我家は戦場でした…父がガンで、また母が自殺し、亡くなるまで。
 
兄の話を聞き、私は意を決して妻とともに九月十六日、中国へ行ったのです。
二人の写真を持って。九月十七日、ハルビン空港に着き、ホテルに着いてほっとしてテレビのスイッチをつけたら、なんとあの細菌部隊「七三一部隊」のドラマが写りました。
体が震えたのですが、後で「七三一」をドラマにすると七年前は(今はどうかわかりませんが)必ず中国ではヒットすると聞いて、もっと震えてしまいました。
そして九月二十日、ハルビンから密山(旧東安)、父親が日本に引き揚げる直前に過ごした町へと向かう十五時間の夜行列車の旅。
翌朝食堂車でうどんを食べている私達にコックさんが近づいて「ここからたくさんの中国人が七三一や日本に連れて行かれた。いまだに帰ってこない。
 
「日本人としてどう思う?」と聞かれ、私は頭の中が真っ白になってしまいました。
四日後、長春(旧新京)に到着。両親が住んでいた住居を探す、通訳の李さんが必死になってそれらしき住居を見つけてくださり、親切な中国人が「中に入っていい」と案内してくださいました。すると息子さんが今、日本に留学中でついこの間、日本から手紙が着いたからと日本の茶封筒に中国の宛先の書いてある息子さんの書いたその手紙を見せてくださったのです。
両親が暮らしていたという感慨と、中国の方に親切にしていただいた喜びで胸いっぱいになりながら街をまわりました。
東条英機の元別荘、元国務院、元関東軍司令部、昭和天皇を迎えるはずであった宮殿(現在大学、それはそれはそびえ立つ大きな建物でした)。そして最後に「満州国」皇帝溥儀の館(現在博物館)そこで私は一枚の写真に目が釘づけになり、立ち往生してしまったのです。
――日本人の将校が笑って日本刀を高く揚げその足元になんと、中国人の青年の生首が整然と置いてある…(十数人の生首でした)!
息を飲んで私はそこに立ちすくみました。足が動かず目は釘づけになり、目の前に見る生首の人たちはまるで生きているように私を見ているのです!
私はとっさに自分の一つの心の謎が解けてゆくのがわかったように思いました。
私は小さい頃から、まわりの人たちにうとまれ、招かれざる隣人と思われているという感覚の中で生きていました。それは父が戦後C級戦犯になり、私たち家族が平和な時代に生まれ変わった日本にとっては、なんとも都合の悪い家族としてうつっていたためだと思うのです。
 
いつも心の奥深くに「幸せになんかなりっこない」まわりの人が助けてくれるとそれを否定したいと思う心に苛まれました。安住の地は求めても得られず今もまたそれを獲得していないがゆえにここに来て、この写真を自分が見ているのだということがわかったのです。
 
私の家族は十五年戦争に加害者として加担し、中国人をこのように殺し、同朋の日本人を棄てた。
その時亡くなられ殺された方達の魂は今も消えては現れ、さ迷い続けている、その恐怖が一見平和に見える普通の家族のそれこそ足元にただよい子供の、私の魂を揺さぶっていたのではなかったか!
私の写真の前で、自分の人生の根幹がこの写真の中国人の方達なのだと知ることができたのです。
「幸せにならない」と言う思いの根幹でした。恐怖の思いの根幹でした。
何も語らずに死んでいった父と、戦後、夫を憎むことで共に人生を重ねあってきた母も、夫の死後、追うようにして自らの意思で死を迎えてしまいました。そんな二人を心の中でいつも恨み続け、許さなかった私はここに来てはじめて、父と母の人間としての戦後の心の葛藤を理解できるようになったのです。日本に帰ってからも、日本軍の犠牲になったその方々の事が忘れられませんでした。自分の「生」とはいったい何であったのか!生きていながら拒絶していた自分の「生」を洗いざらいさらけ出し、見つめてみたくなりました。
 
父や母達は自分達だけが苦しんでいたと思っていたのでしょうか?あの侵略戦争は子供の私の人生をも確実に捕えていたのだと自覚できるようになりました。きっとそれをどこかで知っていた父と母は私の行き方に決して口を出さなかったのだとわかりました。今、生きていたら心から父と母と、人生をやり直せたらと思わずにいられません.そんな私たち家族の人生にひきかえ、あの日話をしてくださった残留婦人の皆様は、当時も軍人の家族と比べれば決して豊かではなかったはずなのに軍にお米を出すために、一生懸命働かれ、戦後、侵略者の代表として中国の大地で日本の罪と罰を受け、償われた。
そして、中国人民とともに誠実に生きてこられた…これほどの戦後の歴史を耐えぬき生きぬかれた方々がおられるだろうか.そして父の加害の罪さえも引き受け、償ってくださった人生ではなかったの!
なんともいえないめぐりあわせの中で、私は中国に行き、やっと自分の「不安」にいつも脅えていた魂の原因を探りあてる事ができました。多くの方達のお陰で…。
私のこの間のあるがままの心の軌跡を振り返る今、やっとあの不安から逃げる自分の中に、日本人としての自分の戦後の歴史が見えた思いがするのです。
私はこの作品を泰阜村の皆さん、すべての残留日本人の皆さん、父と母に届けたいと思い書きました。
そして出来うるなら、その気持ちを中国の人たちにも届けたいと思い書きました。
残留婦人の皆様と逢って、中国へ行って、初めて「自分の生」に対して「このままで良いのか」という思いと、また「感謝」という心が涌いてきた私自身のアウフヘーベン(矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること)を願って戦後の新たな出発にしたいと思ったのです。
 
以上、お話された内容がそのままなので、http://www.bekkoame.ne.jp/~ymasaki/saikai2.htmのパンフレットの内容記事を少し点けたし、ほとんどそのまま掲載させていただいた。
 
 
これを書いている私と渡辺氏は、ほぼ同じ世代ではあるし、父親が満州で兵隊であったことも同じである。
 
「罪業を背負った人生だ」と言う渡辺氏、またその家族も同じようにそれを背負わされたと表現する。
 
お話の後、私は氏に尋ねた。「あなたは、父親を極悪非道な罪人として、その罪業を息子であるあなたが背負って生きることがその罪滅ぼしなのだ」と言われたが、父親を心の底から憎んでいるのですか?」っと・・・。
渡辺氏は、笑顔で言われた「いいえ・・・」
「えっ!!」っと、私は思わず意外な答えに驚いた。
「そう言われますが、今のお話では、親父さんへのフォローが一切なかったじゃないですか!? お話をお聞かせいただいた私たちは、あなたからのメッセージとしてまた、「再会」というお芝居を通して、侵略戦争を犯した我々日本人の今生きる者全員が、あなたと同じように罪業を背負い、目立たず慎ましやかに幸福など望まずに生きるべきだという想いをお話されたのではないのですか?」
彼は、少し考え「そうです。」と静かにお返事された。
 
つまり、彼の書いた「再会」というお芝居は、渡辺義治という一人の戦後生まれの男性が、「日本の犯した戦争とその戦争に加担した人たちはもちろん、その子も孫もその子供も、その罪業を背負わなければならないのではないか」と、いったところまで想いが至ったご自分の心の告白と、その思想的メッセージが熱くこめられていることが分かる。
 
ドイツの元首相(名前は忘れたが)が言ったことを思い出す。
「ドイツ国民の所有するドイツという名の車が、ナチスに乗っ取られたのだ、その車で事故を起こし人々を傷つけたのだから、今のドイツ国民に罪業など有り得ない。」 と宗教的・倫理的な立場から見解を表明している。
ドイツ国民に車の管理責任はあるとしても、直接人々を傷つけた罪業というものはないと言える。ただ、管理者としての責務からは逃れられないということも忘れてはならないが、それは罪業ではない。
しかし、戦後生まれの渡辺氏に、もし、戦争への罪の意識があるのなら、また他の国民にそれを望むのなら、もう一度起きてしまった事象のみを伝えるのではなく、残酷で悲惨な光景を作るに到ったその背景や、加害・被害のそれぞれの立場で必死で生きた普通の人々の心の葛藤なども戦争の悲惨さと共に伝え、その汚れた魂の浄化に熱い想いを注いでいただきたいと思った次第である。
戦後50年が過ぎ、あの忌まわしい大戦を直接語れる人が加速をつけて居なくなるこれからの時期に、思想的にせよ芸術的せよ経済活動にせよ間違って捉えた情報を極力伝えないという意識も必要だし、我が国の戦争責任と、国民一人一人の、人としてあるまじき罪業と戦後の我々が背負う責務や債務とは違うということを、混同せず明示していただきたかった。
彼がもし、本気で父親や戦争責任そのものをご自分の人生で償う為に生まれて来たと思っておられるのなら、ほんとうに不幸なことである。
 
 
戦争は悲惨で狂気の沙汰である。経験のないものにも容易に想像できる。その戦争の現場でおきた生々しい事件を、今の平安な時代の善悪の意識で括ることには所詮無理がある。
 
弱肉強食、必死、瀕死の中では野獣にも鬼畜にもなるのが生を受けたものの真の姿である。生き延びようとする生を受けたものの宿命である。
戦争現場こそが、その鬼畜と化した者たちの住む修羅場である。
苦い経験を持つ我々日本人は、意識をしっかり持ち、絶対に戦争にならないように政府を監視・管理するしか戦争回避などないのである。しかし、それでも、歴史が語るように、どこの国民も政府や軍部に嘘をつかれ、騙され、戦争という修羅場に追い込まれて行くのである。
 
今回のお話は、非常に重い主題で、いろいろ考えさせられたが、結局最後に、会員の誰かが言っていた。
「自分の人生を切り売りする渡辺氏の役者根性を見た思いがする・・・」と。
 
私が最初に彼に尋ねた彼の答え、「父親を憎んではいない」ということで、その会員の一言が理解できるような気がした――。
「再会」というお芝居が、彼の想いを形にしたものであることは確かなことである。
彼の芸術とはいったい何なのか、思想メッセージなのか人間愛なのか、気になる方は、この秋に公演される京都府立文化芸術会館にて開催される「再会」10周年記念全国さよなら記念公演に行かれては。
 
芝居を通じて、戦争の悲惨さやその罪業を伝えることが、彼の生を受けた理由とするなら、今回の京都府立芸術文化会館での公演がなぜ、最後になるのかお聞きしたかった・・・。
 
 
再 会
saikai
 
 
 
 

写真・構成・文:Shokan Fujimo

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