仏教関係者が京都に集う会

平成16年(2004年)1月例会報告

例会 新年会
開催日:2004年01月09日(正月・修正会)例会

新年のご挨拶

森 清範会長

森 清範会長

みなさん、明けましておめでとうございます。
本年も相変わりませずよろしくお願いを申し上げます。
 
いいお正月をみなさんお迎え頂いたでしょうか?
お正月の前の25日はクリスマスで、ケーキをお食べになられたことと思いますが、31日には除夜の鐘を聞いて、1日には、神社やお寺にお参りし、仏教やらキリストさんやら神さんを行ったり来たりで大変お忙しいことやったと思います。
 
しかし、このまま受け入れられるのも、これもまた、日本の文化の一つではないかと思います。
 
ところで、猫も杓子もという言葉がございますが、猫といいますのが、禰宜の子孫を禰子(ねこ)といいまして、仏弟子を釈子(しゃくし)といいます。
お釈迦さまの弟子、お釈迦さまの教えを受け継ぐ者という意味です。
つまり、神さんの子もお釈迦さんの子も、という意味だそうです。
 
お正月のことで、私の小僧時代を思い起こしますと、師匠が90歳ぐらいの時にこんな大きなお餅を6個食べてやぁはたんですね。
「清範、お前いくつ食った?」「5つです」「そんならワシは、もう一つ食うワ」と言って、6個食べやぁはりました。
と、いうことは、ご飯を6膳も食べやぁはったことになりますから、さすがに長生きするお人は違うなぁと、こうなるわけです。
 
お正月に何か掛け物を変えようと探しておりましたら、(ちょうぼくひょう?)先生の「仏心是大慈悲」という、昔、書いていただいたお言葉が見つかりました。
 
「滋」という意味は、人の喜びに感動できる心、「悲」というのは、人の悲しみにも同じ心を持てる――。
喜びにも悲しみにも心が同じようになることを言いまして、何かをするということではないのです。これが微妙なところなんですが、「愛する」というような「する」ということではなくて、その前に滋と悲になれるということ、つまり人の気持ちや心と同じになれるということ、これが慈悲のいう謂れではないかと、こう思います。
 
孔子様は「忠恕」という言葉を大切におっしゃっていますが、この「忠」と文字の意味は、自分の良心に背かないこと、「恕」と言う文字は、如の下に心と書きますから、自分を思うがごとくに、人様を思う、つまり優しさや思いやりのことです。
 
「思いやり」これこそが、仏教の基本精神であるということです。
 
去年のお話になりますが、この前読んだ、新聞のコラム記事を切り抜いて今ここに持って来ておりますが皆さん、11月の22日は何の日か知ってはりますか?
「いい夫婦の日」なんだそうです。実は、私もこの新聞を読むまで知らなんだのですが、みなさん、覚えといてください。
その新聞のコラムをちょっと読んでみますとこんなことが書いて有ります。
 
住友信託銀行が、人生の伴侶に宛てた60歳のラブレターの募集を始めました。それから3年が経ちまして、このほど、NHK出版から3冊の集作が出版されました。その中の一つなんですけども、「僕は、小学校を2年間しか行っていないので、字が書けないのを黙っていました。ある時、君の前で名前を書く時があり、君は僕の字を見てビックリしていました。やさしい君は黙っていました。」
これは奈良市に住む65歳の男性が妻に宛てた手紙ですが、こう始まっているのです。
そのことがあってから、文字を書かねばならない用事があると、いつも妻が付き添った。この男性は今、夜間中学に通って勉強をしている。2年生だという。「卒業したら、苦労をかけた妻にラブレターを書こうと思っています。君は読んでくれると思います。心を込めて書きます。」と、新聞のコラム記事に書いてありました。
実にほのぼのとしたご夫婦の情景が浮かんでまいります。
 
「お互いが思いやる」ということ、「相手の心を自分が思う。そして、心を施す」 これこそが仏教の大慈悲心の精神ではないかと思うので有ります。
年頭に当たりまして、まことにご無礼なことを申し上げましたが、この一年、皆さんがご健康で無事お過ごしになられますことを念じまして、ご挨拶に代えさせていただきます。ありがとうございました。
 
■ご参考
 
猫も杓子も   禰子も釈子も (ねこもしゃくしも)
仏弟子を釈子(しゃくし)といいます。
お釈迦さまの弟子、お釈迦さまの教えを受け継ぐ者という意味です。
 
神官の長を神主(かんぬし)といいます。その神主の下の位を禰宜(ねぎ)といいます。そして禰宜の子孫を禰子(ねこ)といいます。
 
猫も杓子も」はもと「禰子も釈子も」であったといわれます。
つまり、お釈迦さまの弟子も、神様の弟子も、みんないっしょにと言うことてす。
日本では昔、宗教といえば仏教と神道の二系統でしたから、禰子と釈子で日本国民すべてとなります。
これから転じて「どんなものも、みなすべて」の意味になったのです。
 
禰子の字が難しいためでしょうか、いつのまにか猫としゃもじに化けてしまったようです。
 
※子曰、「参乎、吾道一以貫之哉。」 曾子曰、「唯。」 子出。門人問曰、「何謂也。」
曾子曰、「夫子之道、忠恕而己矣。」
 
孔子は言った、「吾が道=私の生き方は、一を以って之を貫くなんだよ。わかっているね。」
曾子は「ハイ。」とだけ答えた。
孔子が去ったあと、回りにいた弟子たちは、まるで禅問答を聴いていにようで、サッパリわからず、
「何ノ謂イゾ也、どういうことですか。」と。
そこで参(シン=曾子)は弟子に「孔子が生涯貫いてきた一つの原理原則は『忠恕』だけである、他にはない」と答えています。
 
忠=自分の良心に背かないこと
恕=他人(ひと)の立場に立ってものを考えるという、優しさや思いやりのことです。
 
孔子は「『一』=『忠恕』=誠心誠意、真心をもって生きてこられた」のです。
『一』=『忠恕』は仏教で言う『慈悲』、キリスト教で言う『』と同じなのです。

 
身体の調子を崩され、心配だった家田事務局長、今日は、元気に司会を勤められ、復活。
申年生まれの会員の一言挨拶と共に和やかに会食を楽しみ、メインエベントのビンゴゲームでは、それぞれが、今年の運気を占った。

写真・構成・文:Shokan Fujimo

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